最終更新日 2024.10.4 21:00 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【国定忠治墓】 (1810-1851) 【群馬県伊勢崎市】 「赤城の山も今宵限りか・・・」 の名文句で知られる博徒の大親分! 『国定忠治』 江戸後期の侠客である。 本名は長岡忠治郎。 縄張り争いなどで抗争を繰り返しお尋ね者に。 各所で潜伏逃亡を繰り返した。 1850年、本腰を入れたお上に捕らえられ、 江戸に移送される。 罪状は多岐に渡ったが、最も重罪であった 「関所破り」が適用され裁かれることに。 磔刑(たっけい)が言い渡された。 【大戸関所】 北国街道の脇往還である「信州街道」。 高崎で「中山道」から分岐して 4番目の宿場町である大戸。 (群馬県吾妻郡吾妻町) 1632年に関所が設けられている。 草津温泉への湯治客や信州善光寺参り、 産物輸送路として大いに賑わい、 1808年には71軒もの宿屋があったとのこと。 忠治一行は1842年にこの関所を破っている。 その際、子分の日光円蔵が亡くなるなど、 多くの犠牲を強いられた 【国定忠治処刑場跡】 江戸で裁かれ、刑の執行は大戸の刑場。 処刑場跡は関所のすぐ南に位置する。。 この碑は昭和43年に建てられた慰霊碑。 「日光の円蔵」をはじめ、 「板割の浅太郎」、「清水の巌鉄」などの 國定一家十二人衆の慰霊碑も置かれている。 忠治が処刑前最期に望んだのは、大戸村の分限者 「加部安左右衛門(かべやす)」が造った 銘酒「牡丹」だったそうです。 【墓】 一枚目画像内の左下の小さなコチラ! が、お墓である。 墓所所在地:群馬県伊勢崎市国定町の養寿寺さん
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