◆中国のお墓トップページへ戻る◆ |
|
![]() 中国のお墓126 【馬海特墓】 (1910-88) 【北京市】 ニューヨーク州出身の米国人である。 本名はGeorge Hatem(ジョージ・ハテム) 医学博士号を取得後、1933年に中国へ渡る。 革命運動に共感を持ち、共産党と行動を共にする。 人々からは「マー先生」と呼ばれ、親しまれ、 医療に従事する傍ら、国際社会との窓口にもなった。 毛沢東とも、とても親しかったようである。 彼のような外国人医師は40人ほどいたとのこと。 ![]() 【付録画像@】 陝西省北部 延安付近の農村です。 長征の舞台となったこのあたりは 抗日に関する施設がとても多い。 ![]() 【付録画像A】 抗日紀念碑 延安の南東にある韓城にあるモニュメント。 名称は「八路軍東渡黄河出師抗日記念碑」 このような巨大なものがゴロゴロしている。 ![]() 【付録画像B】 元宵節 日本でいうところの小正月である。 地方ではまだまだ爆竹が鳴り響く。 画像は司馬遷の墓にほど近い「芝東村」のもの。 陝西省韓城南部。 |
2022年夏季〜冬季掲載 ↓↓↓ ![]() 重要文化財塔婆(石造三重塔) 《通称:山上多重塔》801年 銘文の残る群馬県桐生市の石塔をご紹介! 上野三碑(多胡碑・山上碑・金井沢碑)だけではなく こちらもよろしくお願いします! ![]() 〜以下、桐生市HPより〜 通称、山上の多重塔は、形式上では 塔婆・石造三層塔といわれます。 塔身の三層の部分は一石で造りだされています。 高さは1.85メートルで、下層は幅48センチメートルで 垂直に立ち上がり、中層と上層は「八」の字状に 造られています。それぞれの塔身には朱が塗られ、 45 の文字が刻まれています。読み方は、 上層から右廻りに中層・下層と読みます。 そして、基壇と基礎ならびに笠石は塔身の 朱を強調するように墨が塗られているのがわかります。 刻字の内容は、「朝廷や衆生(しゅじょう)などのため、 小師の道輪が法華経を安置する塔を建てた。 これで、無間(むげん)(八大地獄のうちの阿鼻地獄)の 苦難より救われ、安楽を得て彼岸(悟りの境地)へ 行ける」というものです。 延暦20年(801)7月17日に建てられたこの供養塔は、 平安時代初期の地方における仏教文化史上、 重要な石造物のため全国的に知られています。 銘文の文意 この塔に如法経を安置する。 朝廷・神祇・父母・衆生・合霊の利益のためである、 小師道輪が延暦20年(801)7月17日に 無間の苦しみを受けている衆生を救い、永く安楽を得、 彼岸に到達できるように願い建立した。 ![]() 南面部分「道師小 間無為」刻字 |
|||
![]() 中国のお墓123 【魯迅先生原葬地】 (1881-1936) 【上海市万国公墓】 魯迅の死後、1936年〜56年までは この地に葬られていた。 『47』にて紹介済の魯迅墓とは 直線で11qほど離れている。 この地は孫文の妻としても知られる 宋慶齢が眠る陵園(万国公墓)である。 宋慶齢は毛沢東や内山完造らと共に 魯迅先生葬儀委員会の中心人物であった。 建国後の1956年、魯迅故居や内山書店に近い 虹口公園(現魯迅公園)内に墓所が設けられた。 ![]() 【付録画像@】 紹興魯迅故居 日本の中学生の教科書にも掲載されている「故郷」。 1921年に発表された魯迅の短編小説である。 主人公である「私」が20年ぶりに故郷(紹興)に 帰るところから物語が始まる・・・。 舞台の紹興は魯迅の実際の故郷でもあり、 上海の故居よりも多くのひとが訪れている。 ![]() 【付録画像A】 紹興市内のホテル 15年ほど前に訪れた際に宿泊したホテル。 私はほぼ100%事前予約はせず、 自由気ままに現地で探すことにしている。 このホテルは「紹興実験飯店」という星なしホテル。 表示価格は標準間(スタンダードなルーム)で 180元(当時約3000円)。 実際は交渉して70元! 閑散期でした。 ![]() 【付録画像B】 実験飯店外観 ここは… 1917年、秋瑾が革命志半ばで処刑された 場所(=秋瑾烈士紀念碑)のすぐ近くである。 |
![]() 中国のお墓124 【乃木保典戦死之所】 (1881-1904) 【大連市旅順203高地】 乃木 保典(ノギ ヤススケ)は、日露戦争時に 陸軍の歩兵連隊小隊長として激戦の舞台、 遼東半島に赴いていた。 1904年5月、ここより少し北方の金州南部での 攻防戦(南山の戦い)にて兄「勝典(カツスケ)」が戦死。 同年11月に保典も露軍の砲弾を受け 203高地の崖から滑落して戦死した。 画像の石柱はまさにその場所に置かれている。 高島忠夫さんが「明治天皇と日露大戦争」という 映画内にて保典を演じている。 ![]() 【付録画像@】 中国書法家協会創作中心 前述の「南山の戦い」の舞台になった金州区。 その火車駅(鉄道駅)前にこの施設がある。 ここは満州国時代に経済大臣を務めた 「韓 雲階(カン ウンカイ)」の旧居である。 南山の戦いから25年後の建築。 内部は展示室等の装いはなく、創作活動の場。 ![]() 【付録画像A】 マンション群 金州区郊外・・・ 20〜40階建ての高層マンション群が林立する。 ![]() 【付録画像B】 旅順口(旅順港) 1904年…露軍のバルチック艦隊と旅順艦隊の 合流を阻止する目的で旅順港閉塞作戦が行われた。 三度行われたが何れも失敗に終わっている。 最後に… 「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれている人物は、 保典と勝典の父である希典(マレスケ)である。 親子三人は青山霊園に眠っている。 |
![]() 中国のお墓125 【陳銘枢墓】 (1889-1965) 【北京市】 広東合浦のひと。客家人。 軍人であり政治家。時代に翻弄されながら 最良の立ち位置を模索し生き抜いたひと。 革命派として知られている。 蒋介石と共に日中戦争を戦い、その後も 蒋のもとで共産党と対峙した時期もあるが、 後年は反蒋の将としての顔が主となる。 1933年には福建人民政府を起ち上げたが 数か月で蒋介石の攻撃より崩壊した。 戦後も反蒋を唱え、中華人民共和国成立後は 共産党の要職についた。 ![]() 【付録画像@】 呉松路 陳銘枢は1937年の第二次上海事変(淞滬会戦) にて日本軍と対峙した。中国側(19路軍)は 2400名ほどの死者と6000人を超える負傷者を出す。 この頃、蒋介石に対する不信感が重なりだしたようだ。 画像は日本租界周辺の現在。 陳銘枢は芸術面でも尽力したようで、 筆を持つ機会が多かった。 1945年には共産党側に信頼を得るべく 『石門頌』の聯書を毛沢東に贈っている。 ![]() 【付録画像A】 結婚式 話はガラリと変わり・・・ 結婚式に出席させていただいたときのもの。 このあとこの3倍くらいの料理が運ばれてきました。 場所は上海のホテル。 ![]() 【付録画像B】 ふつうの会食 20年前の天津「狗不理(包子)」本店にて。 私が通っていた頃の狗不理は商標権問題や 買収問題やらで非常にゴタゴタしていた。 |
||
![]() 中国のお墓120 【永陵(王建墓)】 (847-918) 【成都市金牛区】 「王建」は五代十国時代の「前蜀」の初代皇帝。 河南省舞陽(許州舞陽)のひと。 唐末期戦乱の中、功績を残し蜀王となる。 後梁により唐が滅ぼされると、皇帝を名乗った。 国の安寧は訪れることなく、跡目争いも起こり 2代目皇帝「王衍(オウエン)」は在位7年で 「後唐」に滅ぼされた。 陵墓は1940年に発見され、42〜43年に発掘。 79年の対外開放を経て、90年に「永陵博物館」として オープンしている。 ![]() 【付録画像@】 亀趺(きふ)@ 永陵(王建墓)からほど近い場所にある青羊宮。 この境内にて珍しい容の亀趺をみつけた。 首細でスッキリとした顔立ちである。 いつの時代のものか・・・ 「重建青羊宮玉皇殿記碑」・・・ 「公年一九九八年立」と刻まれている。 つい最近のものであった。 ![]() 【付録画像A】 亀趺(きふ)A ついでに同境内に置かれていた別の石碑も紹介。 こちらは「重建四川青羊宮碑記」といい、 老子が函谷関を通過した頃からの歴史が記してあり とても貴重な文物!と、思いきや、こちらも新碑。 また、刻字がかわいそうなくらい雑。 石碑は弐零零零年立。 ![]() 【付録画像B】 亀趺(きふ)B 最後に正統派を紹介。 浙江省杭州の孔廟(=杭州碑林)にある石碑。 「康熙諭旨碑」(清康熙43年=1704年立) 杭州碑林内では比較的新しい石碑であるが、 碑高が480pあり碑林内最大である。 亀趺に興味があるかたは・・・ 10年ほどまえに記したもので中途半端ですが・・・ コチラをどうぞ。 |
![]() 中国のお墓121 【清慕陵(道光帝墓)】 (1782-1850) 【河北省清西陵】 清朝八代皇帝(宣宗 道光帝)の陵墓。 七代皇帝嘉慶帝の頃から…英国から密輸される アヘンの量が激増し、中毒者が溢れだした。 道光帝は林則徐に密輸業者の取り締まりを命じ、 その後の禁輸、英国商人たちからアヘンの没収など… 強行な態度でこれに接した。 激怒した英国による広州攻撃→阿片戦争大敗→ 南京条約と・・・清にとっては屈辱的な結果を辿る。 それを見ていた列強も清に詰め寄り、 フランスとの黄埔条約などを余儀なくされる。 外からの帝国主義と内からの軍閥と 四方八方の敵と対峙せねばならなくなった。 道光帝の死後は、太平天国の乱・アロー戦争・ 清仏戦争・日清戦争・義和団の乱を経て清朝崩壊。 ![]() 【付録画像@】 和諧号 毎度、話はガラリと変わり・・・ こちらは中国の新幹線です。 中朝国境の町、遼寧省丹東駅(2016年)。 「和諧号」は2007年の第6次鉄道高速化により、 CRHシリーズとして本格導入された高速車両。 他に「復興号」というCRシリーズもある。 画像は寒冷地に強いとされるCRH5。 ![]() 【付録画像A】 和諧号 画像はCRH5の一等車(軟座)の車両。 非常に座りごこちがよい。 CRH380の最新車両の商務座(ビジネスクラス)は フルフラット(ほぼベッド)の超豪華な座席がある。 機会があったら是非どうぞ! ![]() 【付録画像B】 和諧号 これはCRHの券売機。 出発地と目的地、日にちなどを選択し購入。 非常に分かりやすい端末である。 が、日本人は従来通り窓口でないと購入出来ず。。 ここ数年でセキュリティーが厳しくなり、 切符には名前(ローマ字)やパスポート番号が 記されるようになった。 |
![]() 中国のお墓122 【徐元珊墓】 (1927-1992) 【北京市福田公墓】 北京出身。6歳から沈富貴(1903-56)に 指導を受け京劇の世界へ。 23歳の頃(1950年)、梅蘭芳劇団に入るが… 病気を患い、徐々に指導者側へと移った。 代表作は「石秀」や「武松」など。 ![]() 【付録画像@】 故居 徐元珊が生まれた北京の宣武門外付近。 日本人も多く訪れる「瑠璃廠」や「そごう」にも近い場所。 ![]() 【付録画像A】 射撃場 あまり観光客は近寄りませんが・・・ 中国には至る所に射撃が出来る施設があります。 北京で学生をしていた頃(20年以上前)、 北京郊外の屋外射撃場によく訪れていました。 クレー射撃はもちろん、ロケットランチャーや 手りゅう弾等小火器部類のものも 手軽に体験することが可能でした。 画像は河北省の屋内施設にて(2004年)。 ![]() 【付録画像B】 灰皿画像 私ごとですが・・・先日の群馬マラソンにて フルマラソンを走りました。(タイムは4時間ちょうど) 数年前・・・長距離を走りたくてタバコをやめました。 意外とあっさりやめることが出来たと記憶しております。 吸っていた頃と今とでは息苦しさ(ランニング中の)は 雲泥の差です。金銭的にも良いことだらけです。 と、、、画像は愛煙家だった頃のもの。 ホテルをチェックアウトする前に必ず【灰皿画像】を 写すことにしていました。あと、部屋の写真も。 昔むかし、「備品の○○が壊れていた」とか 「ソファーが汚されていた」とか… 後日連絡がきて、弁償させられたという話を 聞いていたからです。※地方の安価な宿泊施設談。 で、一番恐ろしいのはタバコの後始末だからです。 灰皿に水を入れて完全に消火した証拠写真! 臭い思い出「灰皿画像」・・・数百枚あります! |
||
![]() 中国のお墓117 【遼慶陵】 (遼代) 【内蒙古自治区赤峰市巴林右旗】 ・遼 六代皇帝 聖宗 耶律文殊奴 (982-1031) ・遼 七代皇帝 興宗 耶律只骨 (1016-1055) ・遼 八代皇帝 道宗 耶律査剌 (1032-1101) 「慶陵」とは、遼(契丹)国最盛期に君臨した 上記三氏が眠っている陵墓の総称である。 画像は聖宗が眠る慶陵内「中陵」。 建造後900年ほど忘れ去られていたが・・・ 1920年頃にカトリック系宣教師によって紹介され、 30年代には日本人によって本格的な調査が行われた。 余談:有名な太祖“耶律阿保機”は初代皇帝である。 ![]() 【付録画像@】 慶陵への道 慶陵に最も近い村からは四輪駆動車か 馬に乗っての移動となる。 奥に見える白く小さな点々は羊たち。 同じく奥に見える斑っぽく延びる土状の部分は みなさんご存じの万里の長城(明長城)よりも 遥か北の長城、「金辺墻」である。風化が激しい。 ![]() 【付録画像A】 壁画 洞窟探検隊の気分で慶陵(陪葬墓)内部を探索。 静まり返った墓室内には鮮やかな壁画が残されている。 が、保存状態は「悪い」の一言である。 ![]() 【付録画像B】 周辺 慶陵は幾度となく盗掘に遭い、 かたちある文物は残っていない。 しかしながら壁画や煉瓦、とりわけ周囲に 散在する陶片は数万片はあるかと思われる。 ここを私が訪れたのは20年ほど前。 その後様々なチームが保存活動に動き出した らしいので現在どのような状態になっているか。。 機会があればまた足を運びたい。 余談 拠点となる村から近くの街までは無舗装道を100q。 街に行くには…早朝5時に村を通過するバスを 捕まえるために4時半頃から道端で待機! |
![]() 中国のお墓118 【金伯陽墓】 (1907-1933) 【遼寧省旅順市】 抗日戦にて活躍した南満遊撃隊の英雄である。 17歳の頃に共青団に加入し、南満州鉄道や北満にて 従事する傍ら工作員として活躍した。26歳時に殉死。 旅順港付近に立派な銅像があるほか、 愛国主義教育基地の「金伯陽烈士記念館」もある。 ![]() 【付録画像@】 大連港引き込み線 話はガラリと変わり・・・ここは大連港。 港を背にして大連市中心部をみた景色。 日満連絡船が就航していた頃に使用されていた 引き込み線跡が残っている。 線路跡は100本ほどあるだろうか。 先を辿ると…線路は既に撤去されたが 踏切機器のみ残っている場所なども有り・・・ とても面白い。 ![]() 【付録画像A】 小売部@ 古そうな写真に見えますが、2016年秋の瀋陽市。 コンビニ(便利店)やスーパー(超市)が増える前は こういった店が庶民の主な買い物場所であった。 その多くは屋号を持たないが、手書きで「超市」と 掲げている店舗を良く目にした。 見栄を張っているのではなく、何でもあるよという 意味合いが込められていたようだ。 写真の店舗は進化してLED照明で 「食雑店」と謳っている。 ![]() 【付録画像B】 小売部A 先の画像内左側に「公用電話」と書かれた 白い鉄看板が見える。 上の画像内には上下青系の看板が見える。 どちらも小売部(店)に掲げられているもの。 今では携帯電話が主流になり使用するひとは 激減してしまったが、90年代までは近所の数十件 みなさんでこの店の電話ひとつを使用していたり、 長距離(市外)に掛ける場合はここを利用していた。 ちなみに黒字の看板のほうが古い。 |
![]() 中国のお墓119 【趙家熹墓】 (1948-1997) 【北京市】 山東莱州のひと。 書法芸術家/書法教育家 現代書家を代表する人物。多くの作品を残している。 康伯藩(1899-1987)に師事し、 顔真卿や欧陽修などの楷書を得意としていた。 ![]() 【付録画像@】 臭豆腐 毎度話題はガラリと変わり・・・ ご存知、臭豆腐のお話し。 もともとは湖南省の郷土料理らしいが、 今ではほぼ全土でお目にかかることができる。 一般には揚げたものを辛い一味唐辛子や タレにつけて食す。 地域によって味や硬さ等も異なるのでお試しあれ! ![]() 【付録画像A】 魚豆腐 中国通なかたでも「魚豆腐」を食したことの あるひとは少ないかと。。。 魚のすり身をを混ぜた豆腐=蒲鉾(かまぼこ)風 この塊りを揚げた食べ物。 または単に蒲鉾を揚げたもの。 トッピングは様々で主に辛めの味付けにする。 私は青島や厦門、成都などで見かけたことがある。 ![]() 【付録画像B】 豆腐脳 杭州を起点に旅をするときにいつもお世話に なっている友好飯店での朝食。 ★旅をする際は、週に1度はここのような 快適なホテルで英気を養うようにしている。 左下の器の豆腐料理をご覧ください。 最も!身近な豆腐料理といっても過言ではない、 豆腐脳(ドウフナオ)である。 油で揚げたパンのような「油条(ヨウティアオ)」と 一緒に食すことが多いので天津発祥と言われている。 が、真相は?である。 北京で学生をしていた頃(20数年前)は 3日に1度は食していた記憶がある。 |
||
![]() 中国のお墓114 【王少楼墓】 (1911-1967) 【北京市】 民国〜新中国を代表する著名な京劇芸術家。 墓表には「表演芸術家」「戯曲教育家」といった 言葉が刻まれている。『京劇老生』と称される。 王少楼の姑母(叔母か伯母)は梅蘭芳の夫人にあたる。 また、夫人は梅蘭芳の琴の師匠の長女である。 このことからも京劇一族であることがわかる。 尚、同時期に活躍し2003年に85歳で亡くなった 『京劇武生』と称されるもう一人の「王少楼」とは別人。 ![]() 【付録画像@】 北京香山付近 王少楼墓は「北京植物園」や市民憩いの場である 「香山」にほど近い海淀区西部に位置する。 この辺りは、夕方になれば街角に屋台が チラホラ現れる昔ながらの風情が残る地区だ。 ![]() 【付録画像A】 北京植物園 園内一周徒歩・・・数時間?? とてもとても広大な敷地である。 愛新覚羅溥儀が釈放後の1959年から この植物園で庭師として働いていた話は有名。 ![]() 【付録画像B】 長距離バス このバスは大連から西安への長距離寝台バス。 経由地をよく見ると済南という山東省の地名が。 通常であれば北京や天津あたりを経由して陸路を ひた走るルートを想像してしまうが・・・ このバスは煙台までフェリーで行き、 その後、国道20号〜35号〜30号を通り 西へ西へというルートのようだ。 およそ2000qの長旅。 青森〜鹿児島までとほぼ同じ距離である。 |
![]() 中国のお墓115 【羅栄桓墓】 (1902-1963) 【北京市】 湖南省衝山県のひと。 戦中戦後を代表する軍人/政治家。 第一期にあたる全人代(全国人民代表大会)の 常務委員会にて元帥に任官。 羅栄桓を含め、同時期に授与された10名が 「十大元帥」と称されている。 朱徳や林彪など錚々たる面々である。 夫人(林月琴 1914-2003)と共に埋葬されており、 墓石前面には毛沢東からの言葉が刻まれている。 ![]() 【付録画像@】 フイルム <全く別の話題に・・・> r化して発音すると・・・「ジィァオジュァル」 デジカメが普及する以前の旅行では必需品であった。 今ではSDカード1枚に高画質画像が数百枚、 いや、数千枚も納まるが・・・ 90年代後半までは24枚撮りや36枚撮りのフイルムを 数十本持ち歩き、無くなる都度購入していた。 発音しやすいので私はコダック(柯達)派であった。 富士フイルムよりも若干安価であった記憶もある。 ※90年代前半は1個5〜6元 後半は10元ほど 専門店以外で購入することが多かったが、 一度も粗悪な品物を掴まされたことはなかった。 ![]() 【付録画像A】 寝台車の洗面所 北京から西安間で使用されていた 寝台列車の洗面所である。 ※20年ほど前 ![]() 【付録画像B】 中国国内旅行 20年ほど前の上海市内旅行会社。 黄山3日間446元、北京5日間1590元、 タイ7日間2580元とある。 ※当時1元=約15円 |
![]() 中国のお墓116 【夫人薛氏墓】 (?-1089) 【河南省新鄭市】 『唐宋八大家』のひとり欧陽修の夫人墓である。 ※≪修=脩≫ 八大家とは・・・(唐:韓愈/柳宗元、 宋:欧陽脩/蘇洵/蘇軾/蘇轍/曾鞏/王安石) 薛氏は第三夫人であった。 先の夫人二人は薄命であったことと、 政治的に非凡な頭脳をもっていたことから 薛氏が長きに渡り欧陽修を支えたという。 夫人墓の隣(画像右側)に欧陽修が眠っている。 ![]() 【付録画像@】 墓誌銘 1985年、辛店鎮欧陽寺から 「宋安康郡太夫人薛氏之墓誌銘」が出土した。 この墓誌銘は蘇轍と超君錫によるもので、 文物的価値も非常に高い。 ![]() 【付録画像A】 探索中 上述の欧陽修夫人墓から、迷いながら小一時間、 戦国期の「許崗古墓群」を目指し進んでいるところ。 村人(画像のひと)に道を聞いたら 30分ほどの道のりを案内してくれた。 ![]() 【付録画像B】 許崗古墓群 許崗古墓群は韓王陵の属墓とされ、 このあたりに大型墓4基を含む 600基ほどが発見されている。 民家や畑の中に存在している。 新鄭市は古墓の宝庫である。 2010年前後、付近にある鄭州大学西亜斯国際学院の 拡張工事中に120基ほどの古墓群が発見された。 同施設ではこれまで1000基以上が発見されている。 ※新鄭市は鄭州市中心部から南へ50q |
||
![]() 中国のお墓111 【柳亜子墓】 (1887-1958) 【北京市八宝山革命公墓】 江蘇省呉江のひと。詩人。 1909年、陳去病や高旭らと 革命的文学結社である「南社」を結成。 1912年、南京臨時大統領府秘書に就く。 その後上海にて邵力子らと「新南社」を結成。 国民党の要職に就くが、1940年に日本に亡命。 戦後(建国後)は全人代常務委員などに就いた。 上海近郊の水郷には縁のある場所が多数ある。 ![]() 【付録画像@】 大通橋 上海近郊の水郷/古鎮と言えば・・・ 「朱家角」「周荘」「西塘」「烏鎮」が有名どころ。 ちょいと通なお方は「安亭」「七宝」辺りにも足を延ばす。 が、素朴な「羅店」を訪れるひとはまだまだ少ない。 しかしながらこの地も開発が進んでいるようで、 中心部付近は整備されたと聞きます。 画像は2004年12月の「羅店鎮大通橋」 ![]() 【付録画像A】 ヤマダ電機 日本ではおなじみのヤマダ電機。 中国では・・・ 瀋陽の故宮にほど近い場所にに店舗がある。 ほぼ全ての商品に値札が付いているので 日本人としては安心感がある。 ![]() 【付録画像B】 国美電器 中国の家電量販店は「国美電器」と 「蘇寧電器」が二強と呼ばれ、中核都市以上ならば ほぼ全国で店舗を展開している。 共に1500店舗以上のネットワークを誇るが、 ここ数年はネット販売業者が最大最強の ライバルになっている。 |
![]() 中国のお墓112 【轉逢和尚之塔】 (1879-1952) 【福建省厦門市南仏陀寺】 福建省南安のひと。 中国を代表する近現代の高僧。 12歳の頃、兄を追うかたちで仏門に入る。 =福州の雪峰寺 国内は福建、浙江、雲南や四川等、 海外はミャンマー、インド、スリランカ、 マレーシアやベトナムなど多くの地で 修行を重ねた。 72歳のとき、滞在先のシンガポールにて遷化。 1965年、中国へ遺骨が戻り・・・ 分骨され、厦門の南仏陀寺(この仏舎利塔) および、蘇州の霊岩山寺にて眠っている。 ![]() 【付録画像@】 仏舎利塔@ 南仏陀寺には多くの仏舎利塔が建立されている。 このお方ほど広く遍歴した高僧は居ない… 太虚大師(1889-1947)の仏舎利塔碑です。 建立は1949年。題字は于右任。 ![]() 【付録画像A】 仏舎利塔A こちらも太虚大師の仏舎利塔。 1984年に建立されたもの。 とても愛されているようです。 尚、この題字は趙撲初の筆。 また、この南仏陀寺はま磨崖石刻の宝庫である。 その多くは民国期のもので、 華僑により刻まれたものが多いのが特徴。 ![]() 【付録画像B】 仏舎利塔B 内モンゴルにある慶州白塔と呼ばれる 八角七層の非常に美しい「釈迦仏舎利塔」。 建立は1049年。高さは73.27m。 数年前に日本国内各地で「草原の王朝 契丹展」 が開催された際に大きく紹介された白塔である。 |
![]() 中国のお墓113 【高自立墓】 (1900-1950) 【遼寧省瀋陽市昭陵】 江西省藻郷のひと。 1926年に共産党入党、翌年には 中国工農紅軍に参加。 34年〜37年にモスクワへ赴任。 帰国後は党の要職に就くが 50年1月9日に瀋陽にて病死。 ここは北陵(昭陵)にある革命烈士陵園。 山西出身の「李冰」、山東出身の「李忠志」、 河南出身の「周樹梅」ら同志と共に眠っている。 ![]() 【付録画像@】 北陵(昭陵) 15年ぶりに訪れたホンタイジの墓。 前回は真夏でしたが今回は真冬。 ほぼ全ての建物が修復中でしたので残念。 この日は氷点下15度ほどの寒さ。。。 同時間帯の観光客はゼロでした。 ![]() 【付録画像A】 スケート場 冬場になると北京以北では池や河川が 天然のスケートリンクとなる。 ここは上述「北陵」の池。 ほぼ全てのひとがスピードスケート靴を履き、 ノロノロと動いている。 ![]() 【付録画像B】 瀋陽路城隍廟碑 この碑は瀋陽故宮内に置かれている。 元代の至正12年(1352年)立。 【瀋陽】という地名が見られる最も古い文物である。 同地には清代初期の「安達礼墓碑」もある。 ホンタイジの忠臣であった安達礼は、 主の死去後、忠誠を誓い後を追い陪葬された。 |
||
![]() 中国のお墓108 【張楽平墓】 (1910-1992) 【上海市】 浙江省海塩のひと。 石像の子供は『三毛』である。 (“三毛”が分かるひとは中国通ッ!) 最近は海外モノも含め、多種多様なマンガを みることが出来るが… 中国にて…80年代までは漫画といったら “三毛シリーズ” のみ(少し誇張)であった。 張楽平は極貧の環境で育ったが、 青年期に芸術教育を受ける機会に 恵まれ漫画家となった。当初の仕事の殆どは 抗日プロパガンダの漫画製作であった。 そんな中、1935年に『三毛流狼記』が 張楽平の筆によって生まれた。 戦時下での孤児たちの労苦や逞しさを描いている。 戦後は多様な題材の他の漫画も描かれたが・・ この「三毛シリーズ」の人気には到底及ばない。 ![]() 【付録画像@】 軍艦島?? 話はガラリと変わり・・・ ここは鴨緑江の北朝鮮側。 日本統治時代に築かれた港湾遺跡である。 水面からの高さは8mほどあり、軍艦島のようだ。 今でも軍港として朝鮮人民軍が利用している。 ![]() 【付録画像A】 中朝友誼橋 丹東(中国)と新義州(北朝鮮)を結ぶ鴨緑江に かかる全長946.2mの橋(左側)。 中朝貿易の大動脈である。 鉄路も敷かれていて、かつて金正日が訪中した際 ここを特別列車にて通過している。 右側は朝鮮戦争時の1950年11月8日、 国連軍(米軍)によって朝鮮側が破壊された橋で 通称「断橋」。1909年完成のこの橋は大型船舶が 通行できるよう、中央部が旋回する可動橋でもあった。 ![]() 【付録画像B】 鴨緑江浮橋 1951年5月30日に完成した即席の鉄路橋…の、痕跡。 中国からの援軍がここから送られた。 前述の鴨緑江断橋はこの下流。 もうひとつ、朝鮮戦争時に 破壊された断橋がこの上流にもある。 |
![]() 中国のお墓109 【蘇軍烈士陵園】 (-1945/1955) 【遼寧省大連市旅順口区】 旅順の203高地から徒歩40分・・・ ここは中国国内最大の外籍墓地である。 関東軍との戦いや抗美援朝(朝鮮戦争)時に 犠牲となったソ連軍兵士やその家族が眠っている。 ※1323座(基)に2030人が埋葬されている ![]() 【付録画像@】 大連賓館 ![]() 【付録画像A】 遼寧賓館 ![]() 【付録画像C】 戦時中の「鉄道総局旅館課」発行物 『満鉄ホテル案内』によると・・・ 大連ヤマトホテル 奉天ヤマトホテル 星ヶ浦ヤマトホテル 黄金臺ヤマトホテル 五龍背温泉ホテル 羅津ヤマトホテル 新京ヤマトホテル 阿爾山温泉ホテル 斉斉哈爾鉄道ホテル 哈爾賓ヤマトホテル 牡丹江ヤマトホテル 壺蘆島ホテル 興城温泉ホテル が、ヤマトホテルグループとされている。 画像@の現在の大連賓館は、 当時の大連ヤマトホテル。 画像Aの現在の遼寧賓館は、 当時の奉天ヤマトホテル。 他に哈爾濱と長春、羅津、旅順の建物が現存し ホテルとして使用されていたり廃墟だったりします。 ![]() 【付録画像C】 瀋陽市少年児童図書館 東北地方には旧満鉄関連の建物が 数百棟現存しているらしい。。。 こちらは1907年に景佑宮を移築して「満鉄奉天公所」が 置かれ、1924年に改築され現在の姿となった建物。 満鉄遺構巡り…とても人気がある。 |
![]() 中国のお墓110 【王国維墓】 (1877-1927) 【北京市福田公墓】 浙江省海寧のひと“王国維”。 郭沫若・羅振玉・董作賓と共に 「甲骨四堂」と称されている。 久しぶりに…書道文化系…大物のお墓です! 今から120年ほど前・・・王懿栄&劉鶚らが 竜骨に刻まれている文字らしきものを発見し、 亀甲獣骨文字(=甲骨文字)の調査研究を開始。 その後、義和団事件や辛亥革命など 時代に翻弄されながらも・・・ 羅振玉&王国維らの研究により殷墟が特定され 甲骨文字の解読から殷王朝の存在が証明された。 また、王国維は東京や京都など、 数次延べ5年間ほど日本に滞在している。。 殷墟の発掘が開始された1928年の前年、 北京頤和園の昆明湖にて入水自殺。 理由は不明。 ![]() 【付録画像@】 殷墟路 河南省安陽市内、殷墟へと続く道。 観光客が訪れる「殷墟」は遺跡群内の 【宮殿宗廟遺跡】に属する。 安陽河にかかる殷都橋を渡り北岸には 広大な【王陵遺跡】と【エン(ホン)北商城遺跡】がある。 この道路看板がある花園庄付近からも 車馬坑などが発見され多くの文物が出土している。 ![]() 【付録画像A】 安陽汽車駅 北京-保定-石家庄-邯鄲-安陽-新郷-鄭州-許昌- 駐馬店-信陽-武漢を経て遠く広東省シンセンまでの 2508qある国道107号。中国歴史文化街道とも言われ 特に河北省河南省部分は黄金ルートである。 比較的乗り降り自由な バスが移動手段として最適である。 ※画像は2005年2月 バスターミナル内の様子 ![]() 【付録画像B】 安陽火車駅 しかし…日本人には鉄道派のほうが多いようだ。 値段が安いことと、定刻に近い発着を考えれば 便利ではある。 ※画像は2004年6月 鉄道駅待合室 |
||
![]() 中国のお墓105 【舒同墓】 (1905-1998) 【北京市八宝山】 江西省東郷のひと。近現代の書家さんである。 1926年、共産党に入党。抗日戦争や国共内戦を経て 中華人民共和国成立後は山東省などで要職に就く。 文革期には監禁されたが、復権後の1980年には 中国書法家協会を設立。その初代主席に就く。 ちなみにその時の副主席には啓功や趙樸初、 沙孟海などそうそうたる面々が揃っていた。 ![]() 【付録画像@】 題字 5歳のころから顔真卿や柳公権の碑帖から 書を学ぶ。貧困家庭であった為、幼少期は 芭蕉の葉などを道具としていたこともあったという。 「七分半」書法という独特の書風を用い、 毛沢東や何香凝などからも絶賛され、 『国民党には于右任あり、共産党には舒同あり』 と、名声を博した。 全国各地で舒同の題字を見かけることが出来るが、 最も有名なものは「上海駅」である。 ![]() 【付録画像A】 狗不理ビール 話は変わり天津のこと。。。。『狗不理』 経営権や商標問題がいろいろあったようですが・・・ もとは西太后も好んだ天津発祥の包子専門店。 東京の池袋にもあるのでご存じの方も多いかと。 で、このビールは天津の本店で20年ほど前に 出されていたビールである。現在は派手な 金ピカラベルのスリム瓶に変わっている。 ![]() 【付録画像B】 麻花 上述の狗不理包子と餡子餅揚と並び、 “天津三絶”に数えられる『十八街麻花』。 小麦粉を油で揚げたもので、 巨大なかりんとうだ。 |
![]() 中国のお墓106 【呂福源墓】 (1945-2004) 【北京市八宝山】 黒竜江綏化のひと。物理学者&政治家。 吉林大学にて物理を学んだのち、 長春第一汽車にて紅旗(車両)の製造に関わる。 改革開放後は直ぐにカナダの モントリオール大学工学院に留学 共産党入党は1983年。 2003年3月には商務部部長の任に就くが、 翌年病が悪化し亡くなる。 後任の部長には“簿煕来”が就任している。 ※商務部部長とは… 日本の経済産業大臣にあたる。 ※簿煕来・・・ ご記憶に新しいかと存じますが、 権力闘争に破れ?失脚した元重慶市トップ。 ![]() 【付録画像@】 クリスマス 画像は大連市中心部のデパート。 周辺は高級感のある店舗が並んでいるのだが・・・ 飾りつけセンスは・・・どこか残念な香りが漂う。 ![]() 【付録画像A】 クリスマス こちらは瀋陽市中心部のデパート前 非常に悲惨な雪だるま。。 ![]() 【付録画像B】 シャッター 廃業した店舗のシャッターには・・・ 求人募集や作業売り込み(各種修理しますよ的な) などのシールが貼られている。 ここまでくると芸術の域かと。。。 |
![]() 中国のお墓107 【汪銀洲墓】 (1912-1956) 【遼寧省瀋陽市】 四川省萬源県のひと。 1938年に中国共産党入党。 瀋陽軍区防空軍第58団の副参謀長。 彼の眠る「瀋陽抗美援朝烈士陵園」には 朝鮮戦争に参加した軍人が埋葬されている。 陵園は1951年に設置され、 1999年に大規模改修し立派な施設となった。 同敷地内にはソ連軍兵士の陵園も置かれている。 ![]() 【付録画像@】 新区建設地 上述の陵園を含む一帯、金山路周辺に 大規模な新区計画がある。 既に幾つかの高層マンション群や 憩いの場となる公園の整備が進んでいる。 しかしながら途中で頓挫?してしまったのか さびれた荒地なども見受けられる。 また、数分に一回(数十秒間)隣の人との会話も 難しいほどの工場からの轟音 (ジェットエンジン音)が鳴り響いている。 ![]() 【付録画像A】 書画研究会 瀋陽駅近くにある瀋陽古玩城内にある。 古玩城には書画から古銭などあらゆる古物商が 入っているが、以前のような活気はないようだ。 ![]() 【付録画像B】 爆発 安徽省銅陵での爆発事故(2017.2.8)を受け、 天津の事故(2015.8.12)から最近のものまでを まとめた報道が増えたようにみえる。 画像は浙江省杭州市の空港にて(2011)。 燃料タンクの爆発かと推測。 |
![]() 中国のお墓102 【太虚大師舎利塔】 (1889-1947) 【福建省厦門市】 多くの摩崖石刻を拝める南普陀寺。 その山中に置かれている。 太虚大師は蘇州崇徳のひと。 民国期の四大高僧のひとりに数えられる。 杭州霊隠寺をはじめ上海や寧波、 南京などで修行。 【※本来の「墓」とは少し異なるが紹介してます】 ![]() 【付録画像@】 題字 左:太虚大師の亡くなった翌年(1948)に 建てられたもの。題字は于右任(1879-1964)。 右:周辺整備が行われた1984年時に建てられたもの。 題字は仏教教会会長および書法家協会副主席の 趙樸初(1907-2000)によるもの。 ![]() 【付録画像A】 舎利塔 南普陀寺には他にも幾つかの舎利塔がある。 画像は轉逢法師(1879-1952)のもの。 彼はベトナム・ミャンマー・インドなどにて 修行をつんだことで知られている。 ![]() 【付録画像B】 厦門 南普陀寺からみた厦門市内。 周辺出身の華僑からの信仰を集めており、 黄仲訓や蔡孝固などの在外華僑による磨崖石刻を 山中でみることができる。 また、明朝末期の瀋有容の題名石刻もある。 それら以上に存在感のあるものが・・・ 今にもニョキっと銃口が出てきそうなトーチカ群である。 |
![]() 中国のお墓103 【任弼時墓】 (1904-1950) 【北京市八宝山】 湖南省長沙のひと。 中華民国期から活躍した政治家。 ジン ヒツジ と読むそうです。 上海在学中に社会主義青年団に加入。 ソ連留学中に中国共産党に入党。 帰国後は党中央にて要職に就き・・・ 1945年3月には中共五大書記〈5人〉 (※現在の中央政治局常務委員〈7人〉に相当) に選出される。 このときの他の4人は・・・ 毛沢東・劉少奇・周恩来・朱徳という顔ぶれだ。 ![]() 【付録画像@】 電柱 〜北京市内〜 このような張り紙群は・・・ 地下鉄駅やバス停の付近で見かけます。 内容は求人情報やアパート情報など。 中には「水道工事が出来ます!」などの 自分を売り込んでいるものも。 ![]() 【付録画像A】 大運河 〜北京市内〜 戦国時代から築かれ始め、隋代に整備された 「京杭大運河」。その北端部分の通恵河内、 北京旧城段内の『玉河故道』部分の遺跡がここ。 ![]() 【付録画像B】 南鑼鼓巷駅 〜北京市内〜 旧北京の風情が残る界隈の玄関口。 夕方は外国人観光客でごった返す。 |
![]() 中国のお墓104 【欧陽予倩墓】 (1889-1962) 【北京市八宝山】 湖南省瀏陽のひと。 明治大学&早稲田大学を卒業。 日本滞在中に演劇団体「春柳社」に参加。 帰国後も春柳社にて活動したが、解散後は 広東や広西などで演劇活動を続けた。 京劇俳優としても知られ、脚本も手掛けた。 晩年は北京にて全人代代表も務めた。 尚、名前の読みはオウヨウ ヨセン。 ![]() 【付録画像@】 欧陽山尊墓 生没年:1914-2009 民国期〜近現代まで活躍した著名な演劇家 「欧陽山尊」は欧陽予倩の養子である。 山尊は予倩の西隣に眠っている。 ![]() 【付録画像A】 寝台車 『100系の新幹線だっ!』 というツッコみを受けそうですが・・ このカード(厚みのあるプラスチック製)は、 寝台車等に乗車した際、車掌が切符を回収しにきて 代わりに渡されるモノです。 90年代後半までは金属製のものもありました。 翌朝または翌々朝、下車する駅が近づくと車掌が やってきてまた切符と交換する仕組みです。 爆睡していても起こしてくれるので とても良いシステムです。 ![]() 【付録画像B】 龍井蝦仁 杭州西湖の山外山にて食したもの。 「いままでで一番美味しかった料理は?」 とよく聞かれます。(2004年9月時、58元) 3番目がコレです。1番2番はそのうちまた。。。 |
||||
![]() 中国のお墓099 【恵陵(劉備墓)】 【四川省成都市】 孔明が祀られている成都市内「武侯祠」。 その境内に…手厚く保護されてきた 劉備玄徳の恵陵がある。 しかしながら… ご存知の通り、劉備終焉の地はここではなく、 長江三峡の白帝城。 その「重慶市奉節」や「四川省眉山市彭山」にも 劉備墓伝説が残されていて真相は?? ![]() 【付録画像@】 唐碑 武侯祠大門を入ってすぐのところに明碑と対に この唐碑が置かれている。 「蜀丞相諸葛武侯祠堂碑」 元和4年(809年)刻 唐朝名臣「裴度」の撰、「柳公綽」の筆、 名匠「魯建」の刻とされ≪三絶碑≫とも称される。 ![]() 【付録画像A】 武侯祠 恵陵を囲む紅壁。 京都嵯峨野の「竹林の道」を思い出す。 ![]() 【付録画像B】 銭幣古玩 古玩市場内の古銭商のショーケース。 安かった30年前・・・ 大量に購入しておけばよかったという 代物が多数あります。。。 |
![]() 中国のお墓100 【張紹曽(張紹曾)墓】 (1879-1928) 【北京市海淀区】 張紹曽は現在の河北省廊坊あたりの出身。 北洋武備学堂を卒業後、日本へ渡る。 陸軍士官学校の砲兵科で学び、1901年に帰国。 袁世凱のもとで重職に就く。 混沌とした時代の中、 中華民国(北京政府)総理にまでなるが、 対立する勢力が強く5ヶ月ほどで辞任。 その後、天津にて張作霖派の銃弾に倒れる。 ![]() 【付録画像@】 天津 張紹曽が殺害された1928年。 その事件とは関係はないが・・・同年、 天津租界の一角に交通飯店大楼が建てられた。 このあたりは歴史的建造物が豊富。 ※画像は2002年時のもの ![]() 【付録画像A】 某書道用品店 この画像のお店は比較的大きいが、 中国の文房四宝店はどこもこのような店内である。 と、全国津々浦々・・・ 墨運堂製の『玄宗』シリーズが陳列されている。 (※画像左端中央) ![]() 【付録画像B】 ゲームセンター 一昔前までは日本の中古ゲーム機が並んでいたが、 中国製の真新しい機械が置かれている。 大型のメダルゲーム機 (メダル落し機や競馬系のもの) が、人気があるようだ。 |
![]() 中国のお墓101 【萬忠墓】 (1894) 【遼寧省大連市旅順口区】 白玉塔や海軍兵器館などのある白玉山東麓にあり、 近くには旅順汽車駅(バスターミナル)がある。 別名「万人坑」と呼ばれるこの墓地は・・・ 日清戦争時の1894年11月に起きたとされる 旅順大虐殺の遭難者を埋葬したところである。 現在の墓苑は1994年に大規模改修されたもの。 ![]() 【付録画像@】 旅順汽車駅 萬忠墓から南東へ徒歩2分。 旅順の玄関口「バスターミナル」である。 大連市内からは北回り70分、南回り50分ほど。 ![]() 【付録画像A】 旅順火車駅 1903年開業(完成は1900年)の、 中国では最古の現役駅舎。 伊藤博文・夏目漱石・与謝野晶子など〜 この駅を利用した人物に思いを馳せながら… ![]() 【付録画像B】 旅順口 日露戦争時に行われた旅順港閉塞作戦の舞台。 この海上封鎖は失敗に終わっている(3回)。 旅順が対外開放されたのはつい数年前のこと。 もし10年前に・・・ 前出の旅順駅やらこの展望台周辺を ぶらぶら歩いていたら・・・ 即拘束!であった。 |
||||
![]() 中国のお墓096 【十二橋烈士墓】 (惨案:1949.12.7) 【四川省成都市】 成都市内、文化公園の一角に・・・ 中国民主同盟中央委員の「楊伯ト」や 中国共産党の「徐梅東」、四川大学学生や 教師など36名が眠っている。 事件(1949.12.7)は中華民国国防部によるもの。 成都十二橋惨案(一二・七大虐殺)と呼ばれ、 主に政治犯を暴虐したもの。 事件名は十二橋付近で起こったことに由来する。 抗日戦争時に使用された防空後内にて 処刑が行われたようだ。 ※人民解放軍による成都解放は12月27日。 ![]() 【付録画像@】 王建墓道 十二橋惨案(事件)は主に十二橋にて行われた。 文化公園北の十二橋路沿いに遺跡がある。 3名のみ少し離れたこの王建墓の墓道にて 処刑されている。 成都が12月27日に解放されたのち、この場所と 十二橋の遺体が掘り起こされた。 翌年(1950年)1月20日には1000人以上が 集まり大規模な追悼式が行われたようだ。 ![]() 【付録画像A】 背簍 湖南省や浙江省など竹林がある農村の 手工芸品である。(…になった) 元々は農作業用の背負い籠だが、 両手が使えるよう子供をおんぶできる籠が作られ… 時がたち使用するひとがいなくなった現在、 物珍しさと便利さが受けて重宝されつつある。 ネット通販で気軽に購入できる。 |
![]() 中国のお墓097 【老山漢墓】 【北京市石景山区】 西漢晩期の古墓。 燕国王または広陽王のものらしい。 1999年12月、地元では古くから「梁王墳」と 呼ばれていたこの地にて、盗掘未遂事件が発生。 それを契機に発掘調査が 行われ、地下から巨大人工建造物が発見された。 2000年秋に一時的に一般公開されたが、 その後は現在に至るまで閉鎖されている。 出土品や棺などは首都博物館にて展示されている。 ![]() 【付録画像@】 燕下都遺跡 こちらは戦国時代末期の燕国昭王の頃の都城跡。 場所は河北省易県。 北京市内から南西へ300数十q。 ![]() 【付録画像A】 燕下都遺跡 90年代は自由に散策出来たが、 現在は点在する遺跡群全てに強固な柵が設置され、 足を踏み入れることが出来なくなった。 画像は20年ほど前に訪れた際の足元の陶片。 ![]() 【付録画像B】 紙銭 お墓参りや葬儀の際、故人にあの世で 使ってもらう為のお金です。 「天地銀有限公司券」や「天地通用銀行券」 等・・・種類や額面も豊富。 中には一見本物の100元札?と思うような 第五套札(毛沢東)そっくりなものもある。 100枚束で3元〜20元ほどで売られている。 |
![]() 中国のお墓098 【営城子漢墓群192号墓】 【遼寧省大連市甘井子区】 この辺り一帯には無数の漢墓があり、 192号墓は1999年3月に発見された。 墓室を囲むような円形状の建物で保護され、 それを覆うように博物館が建設された。 博物館の開館は2010年10月25日。 週末(金土日)のみ開放されている。 ![]() 【付録画像@】 営城子壁画墓 192号墓のある博物館から300mほど離れた 国道202号沿いにある漢墓群の中核施設。 1931年、鉄道(次の画像)修復作業中に 旧日本軍により発見、発掘されたもの。 周辺には数十メートルおきに漢墓が点在している。 多くは発掘後に埋め戻され、現在は跡形もない。 ![]() 【付録画像A】 大連-旅順間の鉄道 大連-旅順間は1日2往復しか列車がないことと、 バスよりも時間がかかることから 観光客の利用はあまりないようである。 「バスで行こうかなぁ?列車にしようかなぁ?」・・・ などと自由に考えられるようになったのもつい数年前。 2009年までは旅順口区周辺の多くは 未開放地域であったのだ。 ![]() 【付録画像B】 漁船 営城子漢墓から路線バスに30分ほど乗ると、 大黒石風景区へ到着する。 夏季は避暑&海水浴で大賑わいのこの地も 冬場はほぼ全てのホテルが閉館し閑散としている。 この日(2015.12)の営城子湾(その先は渤海)は 綺麗で透明度も高かった。 |
||||
![]() 中国のお墓093 【李鳳山墓】 (1866-1926) 【北京市石景山区】 江夏(湖北省武昌)のひと。 銀行家〜鉄道建設など・・・ 辛亥革命を挟み活躍した人物。 墓碑楷書は愛新覚羅宝熙(1871-1942)のもの。 墓園の周囲には養蜂箱が置かれ、 大量の蜜蜂が飛んでいて近づけなかった。 ![]() 【付録画像@】 法海寺 文殊菩薩や水月観音の壁画で有名な 明正統四年(1439)始建の禅寺。 この寺への参道沿いに李鳳山墓がある。 ![]() 【付録画像A】 射撃場 李鳳山のことはよく知らないので・・・ まったり画像を少し。 ここは浙江省のリゾート地。 中国は射撃場を完備しているホテルが少なくない。 暴発しそうな銃が多いがストレス発散には良い。 気軽にクレー射撃が出来る施設も多く、 ランチャーやバツーカ砲、戦車砲など重火器が 体験出来るところもある(あった?)。 ![]() 【付録画像B】 う〜ん 偽物天国と揶揄された北京の秀水市場は ここ数年で贋物販売がほぼ無くなった。 が、地方ではまだまだこんな有様である。 |
![]() 中国のお墓094 【米フツ墓】 ![]() (1051-1107) 【江蘇省鎮江市】 蘇軾・黄庭堅・蔡襄と共に宋四大家と称される… ご存知、北宋末の書画家である。 他の三家よりも文人色の強いひとであった。 湖北襄陽のひとで、のちに鎮江に居を構えた。 「草聖帖」(台北故宮)や、失われたとされる 「家計帖」など九筆からなる『草書九帖』、 『蜀素帖』(台北故宮)などが書作品の代表格。 ![]() 【付録画像@】 墓付近 米フツ墓は鎮江市内からは遠くない 南郊にあるのだが…市内にて販売されている 交通旅游図や各種測絵図を頼りに訪れると、 ココに到着してしまう。 非常に怪しい工業地帯である。 実際は今少し西側に墓はある。 ![]() 【付録画像A】 米フツ書 鎮江市北部の焦山碑林内の「城市山林」。 これは明代刻のもの。 左下のものは同じく焦山碑林内の 「米フツ臨蘭亭及碑陰四帖」の一部。 ![]() 【付録画像B】 新墓 主が入る前の真新しい墓。 北京市内の公墓なので相当な額だと思う。 最後に・・・ 2011年に広東省新遠市清新県(現清新区)にて、 発掘調査中に“米元章”の文字が刻まれた墓碑が 発見された。こちらも米フツ墓である。 米氏の子孫が清宣統三年(1911年)に 重修したものとされ、始建年代は不明。 どちらが真墓か衣冠塚ははっきりしていない。 |
![]() 中国のお墓095 【李可染墓】 (1907-1989) 【北京市】 江蘇蘇州のひと。近代を代表する水墨画家。 幼少期より画を好む。13歳の頃、徐州城にて 王石谷の流れをくむ銭食芝のもとで水墨画を習う。 呉昌碩や魯迅の影響を受けながら… 泰山や西湖、武漢にて遊びながら… 40歳をすぎて郭沫若や斎白石に師事し、 独自の画風を目指すことになる。 中国美術家協会副主席や 中国画研究院院長などを歴任。 「旅游画人」 ![]() 【付録画像@】 1路バス停 天安門前も走る…最も重要な路線、「1路」。 始発は5:00、終発は23:00 停留所数は24あり、行程は22qほど。 所要時間は時間帯によって大きく異なる。 90年代後半までは、長らく『馬官営〜八王墳』 の区間がルートであったが、 軌道交通「八通線」が開通した頃から、 ターミナル的に使用されていた「八王墳」が 消滅し、「四惠」まで延伸された。 一方、西側は「公主墳」から南方向へ向かい、 六里橋周辺まで走っていたものが、 地下鉄路線とほぼ同じ東西一直線のルートに 変更された。・・・2007年頃。 ![]() 【付録画像A】 1路バス 2015年現在使用されている車両です。 場所は西単付近。 |
||||
![]() 〜2015.6.2 中国のお墓090 【馬連良墓】 (1901-1966) 【北京市】 民国期を代表する著名な京劇芸術家。 美男子であったことで知られる。 梅蘭芳と同時期に活躍している。 明中期、左遷された高潔な役人“海瑞”を描いた 「海瑞免官」が代表作。 この作品が文化大革命の引き金とも。。。 ![]() 【付録画像@】 臥仏寺西路 香山西側の丘陵に馬連良墓はある。 この獣道を登った先になるのだが、 更に西側の梅蘭芳墓付近から登るのが正解。 他、同地には同時期に活躍した京劇団員の 「王少楼」や「徐蘭(サンズイ+元)」の墓もある。 ![]() 【付録画像A】 制御護国文昌帝君廟旧碑 話は変わり・・・ 画像をよぉ〜くご覧ください。 真ん中に石碑があります。 北京市内中心部・・・ 最近になり観光客で賑わいだした「南鑼鼓巷」 にほど近い場所の民家内に鎮座している。 ![]() 【付録画像B】 碑面 ここは明成化十三年(1477)、 文昌帝君廟が創建された場所。 1801年の重建時の立碑。 明成化から明嘉慶年間時の修建、 重修の廟の経過が記されている。 書は劉ヨウ(大学士/書家)のもの。 |
![]() 〜2015.7.2 中国のお墓091 【袁崇煥墓】 (1584-1630) 【北京市】 明末の名将。 三国時代の諸葛亮を重ねて語られるなど、 知的な武勇伝と…部下思いであったという。 時代的には山海関を境に後金と対峙していた頃。 ヌルハチやホンタイジとの 攻防にて何れも勝利している。。 ホンタイジが長城戦を回避し北京入りをしたのち、 袁崇煥も北京を死守するべく舞い戻ったのだが、 策略にはまってしまった崇禎帝により・・・ 謀反の疑いありとされ処刑されてしまう。 彼の死が明滅亡を決定的にしたという。 ![]() 【付録画像@】 進士題名碑 袁崇煥は遅咲きの文官(その後武官)であった。 35歳で科挙に合格。その後殿試に及第し進士に。 北京文廟(孔子廟)内の進士題名碑に彼の名が 刻まれている。 ここの進士題名碑は198通。 元明清代の51624人の名が刻まれている。 袁崇煥は画像内真ん中(支柱のとこ)の石碑内に。 ![]() 【付録画像A】 合肥汽車駅 話は変わり・・・ ここは10年前の安徽省合肥バスターミナル。 南京から高速バスに乗り夕刻に到着予定が… 事故渋滞にはまり深夜着。 ここで乗り換えて北へ向かう予定であったが、 急遽ホテル探しをすることに。 こういった事態はワクワクする。 ![]() 【付録画像B】 鳳陽汽車駅 続き・・・ 数日後無事に安徽省内北部の鳳陽へ到着。 この地は明皇陵や古刹龍興寺など・・・ 見どころ沢山の土地である。 |
![]() 〜2015.8.2 中国のお墓092 【田義墓】 (1534-1605) 【北京市石景山区】 西安府華陰のひと。 9歳のとき浄身され宮中に入る。 嘉靖・隆慶・万暦年間を宦官として仕えた。 墓園は明代始建の壁画で有名な法海寺近くにある。 民国期に盗掘に遭い、荒廃しきっていたが、 最近になり改修整備が進み公開されている。 「宦官文化陳列室」「地下墓室」など見どころ多。 ![]() 【付録画像@】 三碑 墓園内は石刻芸術の宝庫であり、神道門や 文官武官の石像生などゴロゴロしている。 漢白玉からなる神仙碑群および 香炉などから形成される石五共は必見である。 また、東亭・中亭・西亭にそれぞれ納まる 巨大三碑はそれぞれ・・・ 東:田義功徳碑 中:万暦皇帝任命田義官職的聖旨碑 西:敕内官監太監田義聖旨碑 ![]() 【付録画像A】 模式口大街 田義墓前の通り「石景山区模式口大街」である。 車両は少ないが人は多い。 野菜や肉などの露天商が目立つ。 また、一昔前は路上では見られなかった… アダルト系の商品が堂々と販売されている。 ![]() 【付録画像B】 中国第四紀氷川遺跡陳列館 同村には鉱物資源や化石等を展示した 「中国第四紀氷川遺跡陳列館」がある。 孔雀石(マラカイト)や化石類の販売もしている。 アンモナイトは700元〜2000元ほど。。。 |
||||
![]() 〜2015.3.3 中国のお墓087 【老舎墓】 (1899-1966) 【北京市】 その名は聞いたことがあるが… あらためて人に聞くのも恥ずかしい。。 そんな人物かと。 彼は満州族正紅旗人で北京出身。 義和団の乱にて八ヶ国連合軍北京入城の際、 父を亡くし辛い幼少期を過ごす。 慈善家の助けもあり、高度な教育を受けられ 北京師範学校を卒業。 二十歳を過ぎキリスト教に入信後、ロンドンへ。 帰国後は山東省の大学にて教壇に立つ。 6年ほどで辞職し、執筆活動に専念。 1936年に代表作「駱駝祥子」を発表。 戦時中も軍事色の強い小説も執筆。 戦後、1957年に「茶館」を発表。 文革期に自殺(他説有)。 現在は八宝山革命公墓に眠る。 1966年に老舎が亡くなっていなければ… 同年にノーベル賞を受賞していたかも!? …という伝説が数年後(2016年以降)に 明らかになる予定です! ![]() 【付録画像@】 新華書店 北京前門に近い場所に老舎ゆかりの「老舎茶館」 がある。が、有名すぎるので画像は省き… 前門大街周辺を少し紹介したい。 北京オリンピックに向け、前門大街は取り壊され 綺麗な?大通りへと姿を変えた。 しかしながら左右の路地(胡同)に入るとまだまだ 昔の姿を留めている箇所が多い地区である。 宣武区劉家胡同1号にある小型四合院の墻上には 「新華書店」の陰刻がみえる。 中には現在、4家族が住んでおり住人の話では 北京第一号店跡地だと豪語していた。 真相は少し異なり・・・ 1937年に陝西省延安にて設立された新華書店。 新中国成立後、1951年に北京に総店が置かれた。 その総店から少し離れたこの場所が宿舎として 使用されていたらしい。 1948年、河北省にて毛沢東が揮毫した文字が 用いられた最初期の『ロゴ』であり貴重なものだ。 ![]() 【付録画像A】 新前門大街 突貫工事の末、完成した大通り。 (画像は2008年完成時) 店舗はがら空き状態で人通りも疎ら。 6年が経過したが現在も賑やかさは感じられない。 ガヤガヤとした昔の前門を懐かしむ声が多いようだ。 ![]() 【付録画像B】 地鉄 10年ほど前、北京の地下鉄全駅を下車したことがある。 当時は1号線・2号線・八通線・13号線のみであった。 早朝から日没まで丸3日かかった記憶がある。 現在の駅数はその5倍以上になる。 更に延伸工事が至る所で進んでいる。 今は2元でどこまでも行けるが、近く値上りするらしい。 また、車両も駅舎も綺麗になった。 一番大きく変わったのは・・・ 「人民が静かになった!」ことだ。 動物園が水族館になった!と誰かが言っていた。 理由は… 乗客の100人中99人がスマホを操作しているから。 ※画像は2014年11月21日11時頃の二号線車内 |
![]() 〜2015.4.2 中国のお墓088 【伊藤克墓】 (1915-1986) 【北京市】 『 悲しみの海を越えて 』 これは1982年に出版された彼女の自伝である。 東京生まれ。 13歳のときに医者をしていた父が亡くなり、 残された財産は叔父に騙し取られてしまう。 学校中退〜過酷な労働を強いられる。 中国好きな父の影響で、幼少期から 漢文を習ったりしていたこともあり大陸に 深い感情を抱いていたという。 そんな中、大阪で事業を展開していた 華僑である蔡と知り合い結婚。 1936年に中国へ渡ることになる。 戦時中は名を「鮑秀蘭」とし、 日本人であることを隠し華僑として生活した。 戦後、日中中日の相互理解を深めたいと 考え、文学作品などの翻訳に努めた。 荊軻が登場する故事「風蕭蕭として易水寒し」 から「蕭蕭」をとり、これを名(ペンネーム)とした。 1961年に帰国後は日中学院などで中国語を 教える傍ら、中国文学作品の翻訳に没頭した。 代表作に「金色の山々」がある。 また、多くのメディアを通じ日中友好を訴え続けた。 1980年、北京にいる長女と一緒に暮らすことを 許可され、再び中国へ渡り晩年を過ごす。 北京師範大学などで教鞭をとりながら 翻訳活動を続け日中友好に力を尽くした。 『日本と中国はどんなことがあっても 仲良くしなければ――。』 1978年8月に日中平和友好条約が結ばれた際に 毎日新聞紙上に掲載された彼女の言葉である。 現在、彼女は北京市郊外の万安公墓に眠る。 参考:中日の架け橋となった日本人女性 伊藤克の生涯(人民中国) ![]() 【付録画像@】 PM2.5数値 AQICNチームのHPからリアルタイムな 大気汚染数値をみることが出来る。 PM2.5やPM10、温度や風速なども。。。 北京市内だけでも数十か所の 観測地点があり、とても便利。 画像は2014年11月27日の午前1時 北京中心部:PM2.5数値 【 515 】。 ちなみに日本の環境基準では・・・ 1年平均値15以下、1日平均値35以下が 望ましいとされ・・・70を超えるとTVなどで ニュースになるレベルである。。。 また、同じ11月の上旬に北京でAPECが 開かれていたときは概ね100前後で 推移していて…「APECブルー」と 命名されていた。覚えてますか? ![]() 【付録画像A】 三環状 一昔前は上海汽車や第一汽車と販売協定を 結んでいるフォルクスワーゲンだらけでしたが… BMWやAudiなど高級車が多くなりました。 トヨタや日産、ホンダ車も。 現代は2002年に合弁会社北京現代が設立後、 タクシーを中心に驚異的な早さで浸透した。 ※現代=ヒュンダイ また、ベンツ系が少なくなったかな?という印象。 90年代まではこの建国門あたりでも馬車(ラバ・ロバ含) が往来していたことがウソのようである。 北京と上海を比べると上海のほうが超高級車を みかけることが多いかと。 フェラーリやベントレーなどもよく走ってますし。 |
![]() 〜2015.5.2 中国のお墓089 【梅蘭芳墓】 (1894-1961) 【北京市】 清末〜近代まで活躍した女形を代表する京劇俳優。 中国京劇「四大名旦」のひとりである。 代表作は「宇宙蜂」や「霸王別姫」など。 関東大震災後のチャリティーなど、 幾度も訪日公演を行う中、日本の歌舞伎にも 触れ、京劇の古典に新風を吹き込んだ。 恭王府の近くに晩年過ごした四合院が 残されており、記念館として公開されている。 京劇に興味のあるかたは是非どうぞ。 ![]() 【付録画像@】 香山 北京市内からピクニックで訪れるひとが多い 風光明媚な場所だ。 今はバスを乗り継いで来なければならないが 近々地下鉄も開通するのでとても便利になる。 梅蘭芳墓は香山の西側にある。 画像は墓に近い香山東方紅幼稚園付近。 ![]() 【付録画像A】 ホームレス 話はガラリと変わり・・・ 2008年の北京オリンピック期に市内の ホームレスが強制排除された。 その後も追い出し作戦がたびたび行われている。。 ボランティアから提供された防寒具が警察などに 奪われる(取り上げられる)こともあったようだ。 リオでもそうであるように東京でも強制排除が 行われるのか…そんな話題もあるみたいですね。 ![]() 【付録画像A】 穴 更に話は別次元へ・・・ 北京市中心部から南西の豊台区にこの穴がある。 画像は2014年11月28日。 12年前の2002年同日、今は塞がれているこの穴に… 私は落ちました。 穴は60p×120p×深さ3メートルほど。 (当時はマンホール盗難が頻発していて穴だらけ) 河北省をグルグルして帰ってきて、 テクテクと夜道を歩いていたら、スポッと落ちて 肋骨3本折れてしまいました。 幸いここは北京。日中友好病院の 国際医療部に掛かることが出来ました。 更に幸いなことにこの時、ここ20年のうち唯一 友人と一緒に旅をしていた為に助かりました。 しかし…その時に限って保険に入っておらず 全額自腹で払いました。 |
||||
◆中国のお墓トップページへ戻る◆ |