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 【3】  087〜
メインページで過去に掲載させていただいたお墓です
(撮影:トモナリWEB店長 ・・・興味のある方はお便りくださいませ)
画像を使用されたい方も遠慮なくお申し付けください(紛失してしまったものも有)


 


中国のお墓126
【馬海特墓】

(1910-88)

【北京市】

ニューヨーク州出身の米国人である。
本名はGeorge Hatem(ジョージ・ハテム)
医学博士号を取得後、1933年に中国へ渡る。
革命運動に共感を持ち、共産党と行動を共にする。

人々からは「マー先生」と呼ばれ、親しまれ、
医療に従事する傍ら、国際社会との窓口にもなった。
毛沢東とも、とても親しかったようである。
彼のような外国人医師は40人ほどいたとのこと。


【付録画像@】 陝西省北部
延安付近の農村です。
長征の舞台となったこのあたりは
抗日に関する施設がとても多い。



【付録画像A】 抗日紀念碑
延安の南東にある韓城にあるモニュメント。
名称は「八路軍東渡黄河出師抗日記念碑」

このような巨大なものがゴロゴロしている。


【付録画像B】 元宵節
日本でいうところの小正月である。
地方ではまだまだ爆竹が鳴り響く。
画像は司馬遷の墓にほど近い「芝東村」のもの。
陝西省韓城南部。

   2022年夏季〜冬季掲載
↓↓↓

重要文化財塔婆(石造三重塔)
《通称:山上多重塔》801年

銘文の残る群馬県桐生市の石塔をご紹介!
上野三碑(多胡碑・山上碑・金井沢碑)だけではなく
こちらもよろしくお願いします!



〜以下、桐生市HPより〜

通称、山上の多重塔は、形式上では
塔婆・石造三層塔といわれます。
塔身の三層の部分は一石で造りだされています。

高さは1.85メートルで、下層は幅48センチメートルで
垂直に立ち上がり、中層と上層は「八」の字状に
造られています。それぞれの塔身には朱が塗られ、
45 の文字が刻まれています。読み方は、
上層から右廻りに中層・下層と読みます。

そして、基壇と基礎ならびに笠石は塔身の
朱を強調するように墨が塗られているのがわかります。
刻字の内容は、「朝廷や衆生(しゅじょう)などのため、
小師の道輪が法華経を安置する塔を建てた。

これで、無間(むげん)(八大地獄のうちの阿鼻地獄)の
苦難より救われ、安楽を得て彼岸(悟りの境地)へ
行ける」というものです。

延暦20年(801)7月17日に建てられたこの供養塔は、
平安時代初期の地方における仏教文化史上、
重要な石造物のため全国的に知られています。

銘文の文意
この塔に如法経を安置する。
朝廷・神祇・父母・衆生・合霊の利益のためである、
小師道輪が延暦20年(801)7月17日に
無間の苦しみを受けている衆生を救い、永く安楽を得、
彼岸に到達できるように願い建立した。


南面部分「道師小 間無為」刻字

   
 


中国のお墓123
【魯迅先生原葬地】

(1881-1936)

【上海市万国公墓】

魯迅の死後、1936年〜56年までは
この地に葬られていた。
『47』にて紹介済の魯迅墓とは
直線で11qほど離れている。

この地は孫文の妻としても知られる
宋慶齢が眠る陵園(万国公墓)である。
宋慶齢は毛沢東や内山完造らと共に
魯迅先生葬儀委員会の中心人物であった。

建国後の1956年、魯迅故居や内山書店に近い
虹口公園(現魯迅公園)内に墓所が設けられた。


【付録画像@】 紹興魯迅故居
日本の中学生の教科書にも掲載されている「故郷」。
1921年に発表された魯迅の短編小説である。
主人公である「私」が20年ぶりに故郷(紹興)に
帰るところから物語が始まる・・・。

舞台の紹興は魯迅の実際の故郷でもあり、
上海の故居よりも多くのひとが訪れている。


【付録画像A】 紹興市内のホテル
15年ほど前に訪れた際に宿泊したホテル。
私はほぼ100%事前予約はせず、
自由気ままに現地で探すことにしている。

このホテルは「紹興実験飯店」という星なしホテル。
表示価格は標準間(スタンダードなルーム)で
180元(当時約3000円)。
実際は交渉して70元! 閑散期でした。


【付録画像B】 実験飯店外観
ここは…
1917年、秋瑾が革命志半ばで処刑された
場所(=秋瑾烈士紀念碑)のすぐ近くである。
   

中国のお墓124
【乃木保典戦死之所】

(1881-1904)

【大連市旅順203高地】

乃木 保典(ノギ ヤススケ)は、日露戦争時に
陸軍の歩兵連隊小隊長として激戦の舞台、
遼東半島に赴いていた。

1904年5月、ここより少し北方の金州南部での
攻防戦(南山の戦い)にて兄「勝典(カツスケ)」が戦死。
同年11月に保典も露軍の砲弾を受け
203高地の崖から滑落して戦死した。
画像の石柱はまさにその場所に置かれている。

高島忠夫さんが「明治天皇と日露大戦争」という
映画内にて保典を演じている。


【付録画像@】 中国書法家協会創作中心
前述の「南山の戦い」の舞台になった金州区。
その火車駅(鉄道駅)前にこの施設がある。

ここは満州国時代に経済大臣を務めた
「韓 雲階(カン ウンカイ)」の旧居である。
南山の戦いから25年後の建築。


内部は展示室等の装いはなく、創作活動の場。


【付録画像A】 マンション群
金州区郊外・・・
20〜40階建ての高層マンション群が林立する。



【付録画像B】 旅順口(旅順港)
1904年…露軍のバルチック艦隊と旅順艦隊の
合流を阻止する目的で旅順港閉塞作戦が行われた。
三度行われたが何れも失敗に終わっている。

最後に…
「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれている人物は、
保典と勝典の父である希典(マレスケ)である。
親子三人は青山霊園に眠っている。
   

中国のお墓125
【陳銘枢墓】

(1889-1965)

【北京市】

広東合浦のひと。客家人。
軍人であり政治家。時代に翻弄されながら
最良の立ち位置を模索し生き抜いたひと。
革命派として知られている。

蒋介石と共に日中戦争を戦い、その後も
蒋のもとで共産党と対峙した時期もあるが、
後年は反蒋の将としての顔が主となる。

1933年には福建人民政府を起ち上げたが
数か月で蒋介石の攻撃より崩壊した。
戦後も反蒋を唱え、中華人民共和国成立後は
共産党の要職についた。


【付録画像@】 呉松路
陳銘枢は1937年の第二次上海事変(淞滬会戦)
にて日本軍と対峙した。中国側(19路軍)は
2400名ほどの死者と6000人を超える負傷者を出す。
この頃、蒋介石に対する不信感が重なりだしたようだ。
画像は日本租界周辺の現在。

陳銘枢は芸術面でも尽力したようで、
筆を持つ機会が多かった。
1945年には共産党側に信頼を得るべく
『石門頌』の聯書を毛沢東に贈っている。



【付録画像A】 結婚式
話はガラリと変わり・・・
結婚式に出席させていただいたときのもの。
このあとこの3倍くらいの料理が運ばれてきました。
場所は上海のホテル。



【付録画像B】 ふつうの会食
20年前の天津「狗不理(包子)」本店にて。
私が通っていた頃の狗不理は商標権問題や
買収問題やらで非常にゴタゴタしていた。

 


中国のお墓120
【永陵(王建墓)】

(847-918)

【成都市金牛区】

「王建」は五代十国時代の「前蜀」の初代皇帝。
河南省舞陽(許州舞陽)のひと。
唐末期戦乱の中、功績を残し蜀王となる。
後梁により唐が滅ぼされると、皇帝を名乗った。

国の安寧は訪れることなく、跡目争いも起こり
2代目皇帝「王衍(オウエン)」は在位7年で
「後唐」に滅ぼされた。

陵墓は1940年に発見され、42〜43年に発掘。
79年の対外開放を経て、90年に「永陵博物館」として
オープンしている。


【付録画像@】 亀趺(きふ)@
永陵(王建墓)からほど近い場所にある青羊宮。
この境内にて珍しい容の亀趺をみつけた。
首細でスッキリとした顔立ちである。

いつの時代のものか・・・
「重建青羊宮玉皇殿記碑」・・・
「公年一九九八年立」と刻まれている。
つい最近のものであった。


【付録画像A】 亀趺(きふ)A
ついでに同境内に置かれていた別の石碑も紹介。
こちらは「重建四川青羊宮碑記」といい、
老子が函谷関を通過した頃からの歴史が記してあり
とても貴重な文物!と、思いきや、こちらも新碑。
また、刻字がかわいそうなくらい雑。
石碑は弐零零零年立。


【付録画像B】 亀趺(きふ)B
最後に正統派を紹介。
浙江省杭州の孔廟(=杭州碑林)にある石碑。
「康熙諭旨碑」(清康熙43年=1704年立)
杭州碑林内では比較的新しい石碑であるが、
碑高が480pあり碑林内最大である。

亀趺に興味があるかたは・・・
10年ほどまえに記したもので中途半端ですが・・・
コチラをどうぞ。
 

中国のお墓121
【清慕陵(道光帝墓)】

(1782-1850)

【河北省清西陵】

清朝八代皇帝(宣宗 道光帝)の陵墓。
七代皇帝嘉慶帝の頃から…英国から密輸される
アヘンの量が激増し、中毒者が溢れだした。
道光帝は林則徐に密輸業者の取り締まりを命じ、
その後の禁輸、英国商人たちからアヘンの没収など…
強行な態度でこれに接した。

激怒した英国による広州攻撃→阿片戦争大敗→
南京条約と・・・清にとっては屈辱的な結果を辿る。
それを見ていた列強も清に詰め寄り、
フランスとの黄埔条約などを余儀なくされる。

外からの帝国主義と内からの軍閥と
四方八方の敵と対峙せねばならなくなった。
道光帝の死後は、太平天国の乱・アロー戦争・
清仏戦争・日清戦争・義和団の乱を経て清朝崩壊。


【付録画像@】 和諧号
毎度、話はガラリと変わり・・・
こちらは中国の新幹線です。
中朝国境の町、遼寧省丹東駅(2016年)。
「和諧号」は2007年の第6次鉄道高速化により、
CRHシリーズとして本格導入された高速車両。
他に「復興号」というCRシリーズもある。
画像は寒冷地に強いとされるCRH5。


【付録画像A】 和諧号
画像はCRH5の一等車(軟座)の車両。
非常に座りごこちがよい。
CRH380の最新車両の商務座(ビジネスクラス)は
フルフラット(ほぼベッド)の超豪華な座席がある。
機会があったら是非どうぞ!


【付録画像B】 和諧号
これはCRHの券売機。
出発地と目的地、日にちなどを選択し購入。
非常に分かりやすい端末である。
が、日本人は従来通り窓口でないと購入出来ず。。
ここ数年でセキュリティーが厳しくなり、
切符には名前(ローマ字)やパスポート番号が
記されるようになった。
   

中国のお墓122
【徐元珊墓】

(1927-1992)

【北京市福田公墓】

北京出身。6歳から沈富貴(1903-56)に
指導を受け京劇の世界へ。
23歳の頃(1950年)、梅蘭芳劇団に入るが…
病気を患い、徐々に指導者側へと移った。
代表作は「石秀」や「武松」など。


【付録画像@】 故居
徐元珊が生まれた北京の宣武門外付近。
日本人も多く訪れる「瑠璃廠」や「そごう」にも近い場所。


【付録画像A】 射撃場
あまり観光客は近寄りませんが・・・
中国には至る所に射撃が出来る施設があります。
北京で学生をしていた頃(20年以上前)、
北京郊外の屋外射撃場によく訪れていました。

クレー射撃はもちろん、ロケットランチャーや
手りゅう弾等小火器部類のものも
手軽に体験することが可能でした。
画像は河北省の屋内施設にて(2004年)。


【付録画像B】 灰皿画像
私ごとですが・・・先日の群馬マラソンにて
フルマラソンを走りました。(タイムは4時間ちょうど)

数年前・・・長距離を走りたくてタバコをやめました。
意外とあっさりやめることが出来たと記憶しております。
吸っていた頃と今とでは息苦しさ(ランニング中の)は
雲泥の差です。金銭的にも良いことだらけです。

と、、、画像は愛煙家だった頃のもの。
ホテルをチェックアウトする前に必ず【灰皿画像】を
写すことにしていました。あと、部屋の写真も。

昔むかし、「備品の○○が壊れていた」とか
「ソファーが汚されていた」とか…
後日連絡がきて、弁償させられたという話を
聞いていたからです。※地方の安価な宿泊施設談。

で、一番恐ろしいのはタバコの後始末だからです。
灰皿に水を入れて完全に消火した証拠写真!
臭い思い出「灰皿画像」・・・数百枚あります!
 


中国のお墓117
【遼慶陵】

(遼代)

【内蒙古自治区赤峰市巴林右旗】

・遼 六代皇帝 聖宗 耶律文殊奴 (982-1031)
・遼 七代皇帝 興宗 耶律只骨 (1016-1055)
・遼 八代皇帝 道宗 耶律査剌 (1032-1101)

「慶陵」とは、遼(契丹)国最盛期に君臨した
上記三氏が眠っている陵墓の総称である。
画像は聖宗が眠る慶陵内「中陵」。

建造後900年ほど忘れ去られていたが・・・
1920年頃にカトリック系宣教師によって紹介され、
30年代には日本人によって本格的な調査が行われた。

余談:有名な太祖“耶律阿保機”は初代皇帝である。


【付録画像@】 慶陵への道
慶陵に最も近い村からは四輪駆動車か
馬に乗っての移動となる。
奥に見える白く小さな点々は羊たち。
同じく奥に見える斑っぽく延びる土状の部分は
みなさんご存じの万里の長城(明長城)よりも
遥か北の長城、「金辺墻」である。風化が激しい。


【付録画像A】 壁画
洞窟探検隊の気分で慶陵(陪葬墓)内部を探索。
静まり返った墓室内には鮮やかな壁画が残されている。
が、保存状態は「悪い」の一言である。


【付録画像B】 周辺
慶陵は幾度となく盗掘に遭い、
かたちある文物は残っていない。
しかしながら壁画や煉瓦、とりわけ周囲に
散在する陶片は数万片はあるかと思われる。
ここを私が訪れたのは20年ほど前。
その後様々なチームが保存活動に動き出した
らしいので現在どのような状態になっているか。。
機会があればまた足を運びたい。

余談
拠点となる村から近くの街までは無舗装道を100q。
街に行くには…早朝5時に村を通過するバスを
捕まえるために4時半頃から道端で待機!
   

中国のお墓118
【金伯陽墓】

(1907-1933)

【遼寧省旅順市】

抗日戦にて活躍した南満遊撃隊の英雄である。
17歳の頃に共青団に加入し、南満州鉄道や北満にて
従事する傍ら工作員として活躍した。26歳時に殉死。
旅順港付近に立派な銅像があるほか、
愛国主義教育基地の「金伯陽烈士記念館」もある。


【付録画像@】 大連港引き込み線
話はガラリと変わり・・・ここは大連港。
港を背にして大連市中心部をみた景色。
日満連絡船が就航していた頃に使用されていた
引き込み線跡が残っている。

線路跡は100本ほどあるだろうか。
先を辿ると…線路は既に撤去されたが
踏切機器のみ残っている場所なども有り・・・
とても面白い。


【付録画像A】 小売部@
古そうな写真に見えますが、2016年秋の瀋陽市。
コンビニ(便利店)やスーパー(超市)が増える前は
こういった店が庶民の主な買い物場所であった。

その多くは屋号を持たないが、手書きで「超市」と
掲げている店舗を良く目にした。
見栄を張っているのではなく、何でもあるよという
意味合いが込められていたようだ。
写真の店舗は進化してLED照明で
「食雑店」と謳っている。


【付録画像B】 小売部A
先の画像内左側に「公用電話」と書かれた
白い鉄看板が見える。
上の画像内には上下青系の看板が見える。
どちらも小売部(店)に掲げられているもの。

今では携帯電話が主流になり使用するひとは
激減してしまったが、90年代までは近所の数十件
みなさんでこの店の電話ひとつを使用していたり、
長距離(市外)に掛ける場合はここを利用していた。
ちなみに黒字の看板のほうが古い。
   

中国のお墓119
【趙家熹墓】

(1948-1997)

【北京市】

山東莱州のひと。
書法芸術家/書法教育家
現代書家を代表する人物。多くの作品を残している。
康伯藩(1899-1987)に師事し、
顔真卿や欧陽修などの楷書を得意としていた。


【付録画像@】 臭豆腐
毎度話題はガラリと変わり・・・
ご存知、臭豆腐のお話し。
もともとは湖南省の郷土料理らしいが、
今ではほぼ全土でお目にかかることができる。

一般には揚げたものを辛い一味唐辛子や
タレにつけて食す。
地域によって味や硬さ等も異なるのでお試しあれ!


【付録画像A】 魚豆腐
中国通なかたでも「魚豆腐」を食したことの
あるひとは少ないかと。。。

魚のすり身をを混ぜた豆腐=蒲鉾(かまぼこ)風
この塊りを揚げた食べ物。
または単に蒲鉾を揚げたもの。
トッピングは様々で主に辛めの味付けにする。
私は青島や厦門、成都などで見かけたことがある。


【付録画像B】 豆腐脳
杭州を起点に旅をするときにいつもお世話に
なっている友好飯店での朝食。
★旅をする際は、週に1度はここのような
快適なホテルで英気を養うようにしている。

左下の器の豆腐料理をご覧ください。
最も!身近な豆腐料理といっても過言ではない、
豆腐脳(ドウフナオ)である。

油で揚げたパンのような「油条(ヨウティアオ)」と
一緒に食すことが多いので天津発祥と言われている。
が、真相は?である。
北京で学生をしていた頃(20数年前)は
3日に1度は食していた記憶がある。



中国のお墓114
【王少楼墓】

(1911-1967)

【北京市】

民国〜新中国を代表する著名な京劇芸術家。
墓表には「表演芸術家」「戯曲教育家」といった
言葉が刻まれている。『京劇老生』と称される。

王少楼の姑母(叔母か伯母)は梅蘭芳の夫人にあたる。
また、夫人は梅蘭芳の琴の師匠の長女である。
このことからも京劇一族であることがわかる。

尚、同時期に活躍し2003年に85歳で亡くなった
『京劇武生』と称されるもう一人の「王少楼」とは別人。


【付録画像@】 北京香山付近
王少楼墓は「北京植物園」や市民憩いの場である
「香山」にほど近い海淀区西部に位置する。
この辺りは、夕方になれば街角に屋台が
チラホラ現れる昔ながらの風情が残る地区だ。


【付録画像A】 北京植物園
園内一周徒歩・・・数時間??
とてもとても広大な敷地である。
愛新覚羅溥儀が釈放後の1959年から
この植物園で庭師として働いていた話は有名。


【付録画像B】 長距離バス
このバスは大連から西安への長距離寝台バス。
経由地をよく見ると済南という山東省の地名が。
通常であれば北京や天津あたりを経由して陸路を
ひた走るルートを想像してしまうが・・・

このバスは煙台までフェリーで行き、
その後、国道20号〜35号〜30号を通り
西へ西へというルートのようだ。
およそ2000qの長旅。
青森〜鹿児島までとほぼ同じ距離である。

   

中国のお墓115
【羅栄桓墓】

(1902-1963)

【北京市】

湖南省衝山県のひと。
戦中戦後を代表する軍人/政治家。
第一期にあたる全人代(全国人民代表大会)の
常務委員会にて元帥に任官。
羅栄桓を含め、同時期に授与された10名が
「十大元帥」と称されている。
朱徳や林彪など錚々たる面々である。

夫人(林月琴 1914-2003)と共に埋葬されており、
墓石前面には毛沢東からの言葉が刻まれている。


【付録画像@】 フイルム
<全く別の話題に・・・>
r化して発音すると・・・「ジィァオジュァル」
デジカメが普及する以前の旅行では必需品であった。
今ではSDカード1枚に高画質画像が数百枚、
いや、数千枚も納まるが・・・
90年代後半までは24枚撮りや36枚撮りのフイルムを
数十本持ち歩き、無くなる都度購入していた。

発音しやすいので私はコダック(柯達)派であった。
富士フイルムよりも若干安価であった記憶もある。
※90年代前半は1個5〜6元 後半は10元ほど
専門店以外で購入することが多かったが、
一度も粗悪な品物を掴まされたことはなかった。


【付録画像A】 寝台車の洗面所
北京から西安間で使用されていた
寝台列車の洗面所である。
※20年ほど前


【付録画像B】 中国国内旅行
20年ほど前の上海市内旅行会社。
黄山3日間446元、北京5日間1590元、
タイ7日間2580元とある。
※当時1元=約15円
   

中国のお墓116
【夫人薛氏墓】

(?-1089)

【河南省新鄭市】

『唐宋八大家』のひとり欧陽修の夫人墓である。
※≪修=脩≫ 八大家とは・・・(唐:韓愈/柳宗元、
宋:欧陽脩/蘇洵/蘇軾/蘇轍/曾鞏/王安石)

薛氏は第三夫人であった。
先の夫人二人は薄命であったことと、
政治的に非凡な頭脳をもっていたことから
薛氏が長きに渡り欧陽修を支えたという。

夫人墓の隣(画像右側)に欧陽修が眠っている。


【付録画像@】 墓誌銘
1985年、辛店鎮欧陽寺から
「宋安康郡太夫人薛氏之墓誌銘」が出土した。
この墓誌銘は蘇轍と超君錫によるもので、
文物的価値も非常に高い。



【付録画像A】 探索中
上述の欧陽修夫人墓から、迷いながら小一時間、
戦国期の「許崗古墓群」を目指し進んでいるところ。
村人(画像のひと)に道を聞いたら
30分ほどの道のりを案内してくれた。


【付録画像B】 許崗古墓群
許崗古墓群は韓王陵の属墓とされ、
このあたりに大型墓4基を含む
600基ほどが発見されている。
民家や畑の中に存在している。

新鄭市は古墓の宝庫である。
2010年前後、付近にある鄭州大学西亜斯国際学院の
拡張工事中に120基ほどの古墓群が発見された。
同施設ではこれまで1000基以上が発見されている。

※新鄭市は鄭州市中心部から南へ50q



中国のお墓111
【柳亜子墓】

(1887-1958)

【北京市八宝山革命公墓】

江蘇省呉江のひと。詩人。
1909年、陳去病や高旭らと
革命的文学結社である「南社」を結成。
1912年、南京臨時大統領府秘書に就く。

その後上海にて邵力子らと「新南社」を結成。
国民党の要職に就くが、1940年に日本に亡命。
戦後(建国後)は全人代常務委員などに就いた。
上海近郊の水郷には縁のある場所が多数ある。


【付録画像@】 大通橋
上海近郊の水郷/古鎮と言えば・・・
「朱家角」「周荘」「西塘」「烏鎮」が有名どころ。
ちょいと通なお方は「安亭」「七宝」辺りにも足を延ばす。
が、素朴な「羅店」を訪れるひとはまだまだ少ない。

しかしながらこの地も開発が進んでいるようで、
中心部付近は整備されたと聞きます。
画像は2004年12月の「羅店鎮大通橋」



【付録画像A】 ヤマダ電機
日本ではおなじみのヤマダ電機。
中国では・・・
瀋陽の故宮にほど近い場所にに店舗がある。
ほぼ全ての商品に値札が付いているので
日本人としては安心感がある。


【付録画像B】 国美電器
中国の家電量販店は「国美電器」と
「蘇寧電器」が二強と呼ばれ、中核都市以上ならば
ほぼ全国で店舗を展開している。

共に1500店舗以上のネットワークを誇るが、
ここ数年はネット販売業者が最大最強の
ライバルになっている。


 

中国のお墓112
【轉逢和尚之塔】

(1879-1952)

【福建省厦門市南仏陀寺】

福建省南安のひと。
中国を代表する近現代の高僧。
12歳の頃、兄を追うかたちで仏門に入る。
=福州の雪峰寺

国内は福建、浙江、雲南や四川等、
海外はミャンマー、インド、スリランカ、
マレーシアやベトナムなど多くの地で
修行を重ねた。

72歳のとき、滞在先のシンガポールにて遷化。
1965年、中国へ遺骨が戻り・・・
分骨され、厦門の南仏陀寺(この仏舎利塔)
および、蘇州の霊岩山寺にて眠っている。


【付録画像@】 仏舎利塔@
南仏陀寺には多くの仏舎利塔が建立されている。
このお方ほど広く遍歴した高僧は居ない…
太虚大師(1889-1947)の仏舎利塔碑です。
建立は1949年。題字は于右任。


【付録画像A】 仏舎利塔A
こちらも太虚大師の仏舎利塔。
1984年に建立されたもの。
とても愛されているようです。
尚、この題字は趙撲初の筆。
また、この南仏陀寺はま磨崖石刻の宝庫である。
その多くは民国期のもので、
華僑により刻まれたものが多いのが特徴。


【付録画像B】 仏舎利塔B
内モンゴルにある慶州白塔と呼ばれる
八角七層の非常に美しい「釈迦仏舎利塔」。
建立は1049年。高さは73.27m。
数年前に日本国内各地で「草原の王朝 契丹展」
が開催された際に大きく紹介された白塔である。

 

中国のお墓113
【高自立墓】

(1900-1950)

【遼寧省瀋陽市昭陵】

江西省藻郷のひと。
1926年に共産党入党、翌年には
中国工農紅軍に参加。
34年〜37年にモスクワへ赴任。
帰国後は党の要職に就くが
50年1月9日に瀋陽にて病死。

ここは北陵(昭陵)にある革命烈士陵園。
山西出身の「李冰」、山東出身の「李忠志」、
河南出身の「周樹梅」ら同志と共に眠っている。


【付録画像@】 北陵(昭陵)
15年ぶりに訪れたホンタイジの墓。
前回は真夏でしたが今回は真冬。
ほぼ全ての建物が修復中でしたので残念。
この日は氷点下15度ほどの寒さ。。。
同時間帯の観光客はゼロでした。


【付録画像A】 スケート場
冬場になると北京以北では池や河川が
天然のスケートリンクとなる。
ここは上述「北陵」の池。
ほぼ全てのひとがスピードスケート靴を履き、
ノロノロと動いている。


【付録画像B】 瀋陽路城隍廟碑
この碑は瀋陽故宮内に置かれている。
元代の至正12年(1352年)立。
【瀋陽】という地名が見られる最も古い文物である。

同地には清代初期の「安達礼墓碑」もある。
ホンタイジの忠臣であった安達礼は、
主の死去後、忠誠を誓い後を追い陪葬された。

 


中国のお墓108
【張楽平墓】

(1910-1992)
【上海市】


浙江省海塩のひと。
石像の子供は『三毛』である。
(“三毛”が分かるひとは中国通ッ!)

最近は海外モノも含め、多種多様なマンガを
みることが出来るが…
中国にて…80年代までは漫画といったら
“三毛シリーズ” のみ(少し誇張)であった。

張楽平は極貧の環境で育ったが、
青年期に芸術教育を受ける機会に
恵まれ漫画家となった。当初の仕事の殆どは
抗日プロパガンダの漫画製作であった。

そんな中、1935年に『三毛流狼記』が
張楽平の筆によって生まれた。
戦時下での孤児たちの労苦や逞しさを描いている。
戦後は多様な題材の他の漫画も描かれたが・・
この「三毛シリーズ」の人気には到底及ばない。


【付録画像@】 軍艦島??

話はガラリと変わり・・・
ここは鴨緑江の北朝鮮側。
日本統治時代に築かれた港湾遺跡である。
水面からの高さは8mほどあり、軍艦島のようだ。
今でも軍港として朝鮮人民軍が利用している。


【付録画像A】 中朝友誼橋

丹東(中国)と新義州(北朝鮮)を結ぶ鴨緑江に
かかる全長946.2mの橋(左側)。
中朝貿易の大動脈である。
鉄路も敷かれていて、かつて金正日が訪中した際
ここを特別列車にて通過している。

右側は朝鮮戦争時の1950年11月8日、
国連軍(米軍)によって朝鮮側が破壊された橋で
通称「断橋」。1909年完成のこの橋は大型船舶が
通行できるよう、中央部が旋回する可動橋でもあった。



【付録画像B】 鴨緑江浮橋

1951年5月30日に完成した即席の鉄路橋…の、痕跡。
中国からの援軍がここから送られた。
前述の鴨緑江断橋はこの下流。
もうひとつ、朝鮮戦争時に
破壊された断橋がこの上流にもある。





中国のお墓109
【蘇軍烈士陵園】

(-1945/1955)
【遼寧省大連市旅順口区】

旅順の203高地から徒歩40分・・・
ここは中国国内最大の外籍墓地である。
関東軍との戦いや抗美援朝(朝鮮戦争)時に
犠牲となったソ連軍兵士やその家族が眠っている。
※1323座(基)に2030人が埋葬されている


【付録画像@】 大連賓館


【付録画像A】 遼寧賓館


【付録画像C】

戦時中の「鉄道総局旅館課」発行物
『満鉄ホテル案内』によると・・・
大連ヤマトホテル
奉天ヤマトホテル
星ヶ浦ヤマトホテル

黄金臺ヤマトホテル
五龍背温泉ホテル
羅津ヤマトホテル
新京ヤマトホテル
阿爾山温泉ホテル
斉斉哈爾鉄道ホテル
哈爾賓ヤマトホテル
牡丹江ヤマトホテル
壺蘆島ホテル
興城温泉ホテル

が、ヤマトホテルグループとされている。

画像@の現在の大連賓館は、
当時の大連ヤマトホテル。
画像Aの現在の遼寧賓館は、
当時の奉天ヤマトホテル。

他に哈爾濱と長春、羅津、旅順の建物が現存し
ホテルとして使用されていたり廃墟だったりします。


【付録画像C】 瀋陽市少年児童図書館

東北地方には旧満鉄関連の建物が
数百棟現存しているらしい。。。
こちらは1907年に景佑宮を移築して「満鉄奉天公所」が
置かれ、1924年に改築され現在の姿となった建物。
満鉄遺構巡り…とても人気がある。

 

中国のお墓110
【王国維墓】

(1877-1927)
【北京市福田公墓】

浙江省海寧のひと“王国維”。
郭沫若・羅振玉・董作賓と共に
「甲骨四堂」と称されている。
久しぶりに…書道文化系…大物のお墓です!

今から120年ほど前・・・王懿栄&劉鶚らが
竜骨に刻まれている文字らしきものを発見し、
亀甲獣骨文字(=甲骨文字)の調査研究を開始。

その後、義和団事件や辛亥革命など
時代に翻弄されながらも・・・
羅振玉&王国維らの研究により殷墟が特定され
甲骨文字の解読から殷王朝の存在が証明された。


また、王国維は東京や京都など、
数次延べ5年間ほど日本に滞在している。。
殷墟の発掘が開始された1928年の前年、
北京頤和園の昆明湖にて入水自殺。
理由は不明。


【付録画像@】 殷墟路

河南省安陽市内、殷墟へと続く道。
観光客が訪れる「殷墟」は遺跡群内の
【宮殿宗廟遺跡】に属する。
安陽河にかかる殷都橋を渡り北岸には
広大な【王陵遺跡】と【エン(ホン)北商城遺跡】がある。

この道路看板がある花園庄付近からも
車馬坑などが発見され多くの文物が出土している。


【付録画像A】 安陽汽車駅

北京-保定-石家庄-邯鄲-安陽-新郷-鄭州-許昌-
駐馬店-信陽-武漢を経て遠く広東省シンセンまでの
2508qある国道107号。中国歴史文化街道とも言われ
特に河北省河南省部分は黄金ルートである。

比較的乗り降り自由な
バスが移動手段として最適である。
※画像は2005年2月 バスターミナル内の様子


【付録画像B】 安陽火車駅

しかし…日本人には鉄道派のほうが多いようだ。
値段が安いことと、定刻に近い発着を考えれば
便利ではある。
※画像は2004年6月 鉄道駅待合室


 


中国のお墓105
【舒同墓】

(1905-1998)
【北京市八宝山】


江西省東郷のひと。近現代の書家さんである。
1926年、共産党に入党。抗日戦争や国共内戦を経て
中華人民共和国成立後は山東省などで要職に就く。

文革期には監禁されたが、復権後の1980年には
中国書法家協会を設立。その初代主席に就く。
ちなみにその時の副主席には啓功や趙樸初、
沙孟海などそうそうたる面々が揃っていた。


【付録画像@】 題字
5歳のころから顔真卿や柳公権の碑帖から
書を学ぶ。貧困家庭であった為、幼少期は
芭蕉の葉などを道具としていたこともあったという。

「七分半」書法という独特の書風を用い、
毛沢東や何香凝などからも絶賛され、
『国民党には于右任あり、共産党には舒同あり』
と、名声を博した。

全国各地で舒同の題字を見かけることが出来るが、
最も有名なものは「上海駅」である。



【付録画像A】 狗不理ビール
話は変わり天津のこと。。。。『狗不理』
経営権や商標問題がいろいろあったようですが・・・
もとは西太后も好んだ天津発祥の包子専門店。
東京の池袋にもあるのでご存じの方も多いかと。

で、このビールは天津の本店で20年ほど前に
出されていたビールである。現在は派手な
金ピカラベルのスリム瓶に変わっている。


【付録画像B】 麻花
上述の狗不理包子と餡子餅揚と並び、
“天津三絶”に数えられる『十八街麻花』。
小麦粉を油で揚げたもので、
巨大なかりんとうだ。

 

中国のお墓106
【呂福源墓】

(1945-2004)
【北京市八宝山】


黒竜江綏化のひと。物理学者&政治家。
吉林大学にて物理を学んだのち、
長春第一汽車にて紅旗(車両)の製造に関わる。
改革開放後は直ぐにカナダの
モントリオール大学工学院に留学
共産党入党は1983年。
2003年3月には商務部部長の任に就くが、
翌年病が悪化し亡くなる。
後任の部長には“簿煕来”が就任している。

※商務部部長とは…
日本の経済産業大臣にあたる。
簿煕来・・・
ご記憶に新しいかと存じますが、
権力闘争に破れ?失脚した元重慶市トップ。



【付録画像@】 クリスマス
画像は大連市中心部のデパート。
周辺は高級感のある店舗が並んでいるのだが・・・
飾りつけセンスは・・・どこか残念な香りが漂う。


【付録画像A】 クリスマス
こちらは瀋陽市中心部のデパート前
非常に悲惨な雪だるま。。



【付録画像B】 シャッター
廃業した店舗のシャッターには・・・
求人募集や作業売り込み(各種修理しますよ的な)
などのシールが貼られている。
ここまでくると芸術の域かと。。。
 

中国のお墓107
【汪銀洲墓】

(1912-1956)
【遼寧省瀋陽市】


四川省萬源県のひと。
1938年に中国共産党入党。
瀋陽軍区防空軍第58団の副参謀長。
彼の眠る「瀋陽抗美援朝烈士陵園」には
朝鮮戦争に参加した軍人が埋葬されている。

陵園は1951年に設置され、
1999年に大規模改修し立派な施設となった。
同敷地内にはソ連軍兵士の陵園も置かれている。


【付録画像@】 新区建設地
上述の陵園を含む一帯、金山路周辺に
大規模な新区計画がある。
既に幾つかの高層マンション群や
憩いの場となる公園の整備が進んでいる。
しかしながら途中で頓挫?してしまったのか
さびれた荒地なども見受けられる。

また、数分に一回(数十秒間)隣の人との会話も
難しいほどの工場からの轟音
(ジェットエンジン音)が鳴り響いている。


【付録画像A】 書画研究会
瀋陽駅近くにある瀋陽古玩城内にある。
古玩城には書画から古銭などあらゆる古物商が
入っているが、以前のような活気はないようだ。



【付録画像B】 爆発
安徽省銅陵での爆発事故(2017.2.8)を受け、
天津の事故(2015.8.12)から最近のものまでを
まとめた報道が増えたようにみえる。
画像は浙江省杭州市の空港にて(2011)。
燃料タンクの爆発かと推測。


 


中国のお墓102
【太虚大師舎利塔】

(1889-1947)
【福建省厦門市】


多くの摩崖石刻を拝める南普陀寺。
その山中に置かれている。
太虚大師は蘇州崇徳のひと。
民国期の四大高僧のひとりに数えられる。
杭州霊隠寺をはじめ上海や寧波、
南京などで修行。
【※本来の「墓」とは少し異なるが紹介してます】


【付録画像@】 題字
左:太虚大師の亡くなった翌年(1948)に
建てられたもの。題字は于右任(1879-1964)。
右:周辺整備が行われた1984年時に建てられたもの。
題字は仏教教会会長および書法家協会副主席の
趙樸初(1907-2000)によるもの。



【付録画像A】 舎利塔
南普陀寺には他にも幾つかの舎利塔がある。
画像は轉逢法師(1879-1952)のもの。
彼はベトナム・ミャンマー・インドなどにて
修行をつんだことで知られている。




【付録画像B】 厦門
南普陀寺からみた厦門市内。
周辺出身の華僑からの信仰を集めており、
黄仲訓や蔡孝固などの在外華僑による磨崖石刻を
山中でみることができる。
また、明朝末期の瀋有容の題名石刻もある。

それら以上に存在感のあるものが・・・
今にもニョキっと銃口が出てきそうなトーチカ群である。

   

中国のお墓103
【任弼時墓】

(1904-1950)
【北京市八宝山】


湖南省長沙のひと。
中華民国期から活躍した政治家。
ジン ヒツジ と読むそうです。
上海在学中に社会主義青年団に加入。
ソ連留学中に中国共産党に入党。

帰国後は党中央にて要職に就き・・・
1945年3月には中共五大書記〈5人〉
(※現在の中央政治局常務委員〈7人〉に相当)
に選出される。
このときの他の4人は・・・
毛沢東・劉少奇・周恩来・朱徳という顔ぶれだ。


【付録画像@】 電柱

〜北京市内〜
このような張り紙群は・・・
地下鉄駅やバス停の付近で見かけます。
内容は求人情報やアパート情報など。
中には「水道工事が出来ます!」などの
自分を売り込んでいるものも。




【付録画像A】 大運河
〜北京市内〜
戦国時代から築かれ始め、隋代に整備された
「京杭大運河」。その北端部分の通恵河内、
北京旧城段内の『玉河故道』部分の遺跡がここ。



【付録画像B】 南鑼鼓巷駅
〜北京市内〜
旧北京の風情が残る界隈の玄関口。
夕方は外国人観光客でごった返す。

   

中国のお墓104
【欧陽予倩墓】

(1889-1962)
【北京市八宝山】

湖南省瀏陽のひと。
明治大学&早稲田大学を卒業。
日本滞在中に演劇団体「春柳社」に参加。
帰国後も春柳社にて活動したが、解散後は
広東や広西などで演劇活動を続けた。

京劇俳優としても知られ、脚本も手掛けた。
晩年は北京にて全人代代表も務めた。
尚、名前の読みはオウヨウ ヨセン。


【付録画像@】 欧陽山尊墓
生没年:1914-2009
民国期〜近現代まで活躍した著名な演劇家
「欧陽山尊」は欧陽予倩の養子である。
山尊は予倩の西隣に眠っている。




【付録画像A】 寝台車
『100系の新幹線だっ!』
というツッコみを受けそうですが・・
このカード(厚みのあるプラスチック製)は、
寝台車等に乗車した際、車掌が切符を回収しにきて
代わりに渡されるモノです。

90年代後半までは金属製のものもありました。
翌朝または翌々朝、下車する駅が近づくと車掌が
やってきてまた切符と交換する仕組みです。
爆睡していても起こしてくれるので
とても良いシステムです。


【付録画像B】 龍井蝦仁
杭州西湖の山外山にて食したもの。
「いままでで一番美味しかった料理は?」
とよく聞かれます。(2004年9月時、58元)
3番目がコレです。1番2番はそのうちまた。。。

 


中国のお墓099
【恵陵(劉備墓)】

【四川省成都市】

孔明が祀られている成都市内「武侯祠」。
その境内に…手厚く保護されてきた
劉備玄徳の恵陵がある。

しかしながら…
ご存知の通り、劉備終焉の地はここではなく、
長江三峡の白帝城。
その「重慶市奉節」や「四川省眉山市彭山」にも
劉備墓伝説が残されていて真相は??




【付録画像@】 唐碑
武侯祠大門を入ってすぐのところに明碑と対に
この唐碑が置かれている。
「蜀丞相諸葛武侯祠堂碑」

元和4年(809年)刻
唐朝名臣「裴度」の撰、「柳公綽」の筆、
名匠「魯建」の刻とされ≪三絶碑≫とも称される。



【付録画像A】 武侯祠
恵陵を囲む紅壁。
京都嵯峨野の「竹林の道」を思い出す。



【付録画像B】 銭幣古玩
古玩市場内の古銭商のショーケース。
安かった30年前・・・
大量に購入しておけばよかったという
代物が多数あります。。。

   

中国のお墓100
【張紹曽(張紹曾)墓】

(1879-1928)
【北京市海淀区】


張紹曽は現在の河北省廊坊あたりの出身。
北洋武備学堂を卒業後、日本へ渡る。
陸軍士官学校の砲兵科で学び、1901年に帰国。
袁世凱のもとで重職に就く。

混沌とした時代の中、
中華民国(北京政府)総理にまでなるが、
対立する勢力が強く5ヶ月ほどで辞任。
その後、天津にて張作霖派の銃弾に倒れる。




【付録画像@】 天津
張紹曽が殺害された1928年。
その事件とは関係はないが・・・同年、
天津租界の一角に交通飯店大楼が建てられた。
このあたりは歴史的建造物が豊富。
※画像は2002年時のもの




【付録画像A】 某書道用品店
この画像のお店は比較的大きいが、
中国の文房四宝店はどこもこのような店内である。
と、全国津々浦々・・・
墨運堂製の『玄宗』シリーズが陳列されている。
(※画像左端中央)



【付録画像B】 ゲームセンター
一昔前までは日本の中古ゲーム機が並んでいたが、
中国製の真新しい機械が置かれている。
大型のメダルゲーム機
(メダル落し機や競馬系のもの)
が、人気があるようだ。
   

中国のお墓101
【萬忠墓】

(1894)
【遼寧省大連市旅順口区】


白玉塔や海軍兵器館などのある白玉山東麓にあり、
近くには旅順汽車駅(バスターミナル)がある。

別名「万人坑」と呼ばれるこの墓地は・・・
日清戦争時の1894年11月に起きたとされる
旅順大虐殺の遭難者を埋葬したところである。

現在の墓苑は1994年に大規模改修されたもの。




【付録画像@】 旅順汽車駅
萬忠墓から南東へ徒歩2分。
旅順の玄関口「バスターミナル」である。
大連市内からは北回り70分、南回り50分ほど。




【付録画像A】 旅順火車駅
1903年開業(完成は1900年)の、
中国では最古の現役駅舎。

伊藤博文・夏目漱石・与謝野晶子など〜
この駅を利用した人物に思いを馳せながら…



【付録画像B】 旅順口
日露戦争時に行われた旅順港閉塞作戦の舞台。
この海上封鎖は失敗に終わっている(3回)。

旅順が対外開放されたのはつい数年前のこと。
もし10年前に・・・
前出の旅順駅やらこの展望台周辺を
ぶらぶら歩いていたら・・・
即拘束!であった。

 


中国のお墓096
【十二橋烈士墓】

(惨案:1949.12.7)

【四川省成都市】

成都市内、文化公園の一角に・・・
中国民主同盟中央委員の「楊伯ト」や
中国共産党の「徐梅東」、四川大学学生や
教師など36名が眠っている。
事件(1949.12.7)は中華民国国防部によるもの。

成都十二橋惨案(一二・七大虐殺)と呼ばれ、
主に政治犯を暴虐したもの。
事件名は十二橋付近で起こったことに由来する。
抗日戦争時に使用された防空後内にて
処刑が行われたようだ。
※人民解放軍による成都解放は12月27日。



【付録画像@】 王建墓道
十二橋惨案(事件)は主に十二橋にて行われた。
文化公園北の十二橋路沿いに遺跡がある。
3名のみ少し離れたこの王建墓の墓道にて
処刑されている。
成都が12月27日に解放されたのち、この場所と
十二橋の遺体が掘り起こされた。
翌年(1950年)1月20日には1000人以上が
集まり大規模な追悼式が行われたようだ。



【付録画像A】 背簍
湖南省や浙江省など竹林がある農村の
手工芸品である。(…になった)
元々は農作業用の背負い籠だが、
両手が使えるよう子供をおんぶできる籠が作られ…
時がたち使用するひとがいなくなった現在、
物珍しさと便利さが受けて重宝されつつある。
ネット通販で気軽に購入できる。

 

中国のお墓097
【老山漢墓】

【北京市石景山区】

西漢晩期の古墓。
燕国王または広陽王のものらしい。
1999年12月、地元では古くから「梁王墳」と
呼ばれていたこの地にて、盗掘未遂事件が発生。

それを契機に発掘調査が
行われ、地下から巨大人工建造物が発見された。
2000年秋に一時的に一般公開されたが、
その後は現在に至るまで閉鎖されている。
出土品や棺などは首都博物館にて展示されている。



【付録画像@】 燕下都遺跡
こちらは戦国時代末期の燕国昭王の頃の都城跡。
場所は河北省易県。
北京市内から南西へ300数十q。



【付録画像A】 燕下都遺跡
90年代は自由に散策出来たが、
現在は点在する遺跡群全てに強固な柵が設置され、
足を踏み入れることが出来なくなった。
画像は20年ほど前に訪れた際の足元の陶片。



【付録画像B】 紙銭
お墓参りや葬儀の際、故人にあの世で
使ってもらう為のお金です。
「天地銀有限公司券」や「天地通用銀行券」
等・・・種類や額面も豊富。
中には一見本物の100元札?と思うような
第五套札(毛沢東)そっくりなものもある。
100枚束で3元〜20元ほどで売られている。

 

中国のお墓098
【営城子漢墓群192号墓】

【遼寧省大連市甘井子区】

この辺り一帯には無数の漢墓があり、
192号墓は1999年3月に発見された。
墓室を囲むような円形状の建物で保護され、
それを覆うように博物館が建設された。
博物館の開館は2010年10月25日。
週末(金土日)のみ開放されている。



【付録画像@】 営城子壁画墓
192号墓のある博物館から300mほど離れた
国道202号沿いにある漢墓群の中核施設。
1931年、鉄道(次の画像)修復作業中に
旧日本軍により発見、発掘されたもの。
周辺には数十メートルおきに漢墓が点在している。
多くは発掘後に埋め戻され、現在は跡形もない。



【付録画像A】 大連-旅順間の鉄道
大連-旅順間は1日2往復しか列車がないことと、
バスよりも時間がかかることから
観光客の利用はあまりないようである。

「バスで行こうかなぁ?列車にしようかなぁ?」・・・
などと自由に考えられるようになったのもつい数年前。
2009年までは旅順口区周辺の多くは
未開放地域であったのだ。



【付録画像B】 漁船
営城子漢墓から路線バスに30分ほど乗ると、
大黒石風景区へ到着する。
夏季は避暑&海水浴で大賑わいのこの地も
冬場はほぼ全てのホテルが閉館し閑散としている。
この日(2015.12)の営城子湾(その先は渤海)は
綺麗で透明度も高かった。

 


中国のお墓093
【李鳳山墓】

(1866-1926)

【北京市石景山区】

江夏(湖北省武昌)のひと。
銀行家〜鉄道建設など・・・
辛亥革命を挟み活躍した人物。
墓碑楷書は愛新覚羅宝熙(1871-1942)のもの。

墓園の周囲には養蜂箱が置かれ、
大量の蜜蜂が飛んでいて近づけなかった。


【付録画像@】 法海寺
文殊菩薩や水月観音の壁画で有名な
明正統四年(1439)始建の禅寺。
この寺への参道沿いに李鳳山墓がある。



【付録画像A】 射撃場
李鳳山のことはよく知らないので・・・
まったり画像を少し。
ここは浙江省のリゾート地。
中国は射撃場を完備しているホテルが少なくない。
暴発しそうな銃が多いがストレス発散には良い。
気軽にクレー射撃が出来る施設も多く、
ランチャーやバツーカ砲、戦車砲など重火器が
体験出来るところもある(あった?)。



【付録画像B】 う〜ん
偽物天国と揶揄された北京の秀水市場は
ここ数年で贋物販売がほぼ無くなった。
が、地方ではまだまだこんな有様である。


   

中国のお墓094
【米フツ墓】

(1051-1107)

【江蘇省鎮江市】

蘇軾・黄庭堅・蔡襄と共に宋四大家と称される…
ご存知、北宋末の書画家である。
他の三家よりも文人色の強いひとであった。
湖北襄陽のひとで、のちに鎮江に居を構えた。
「草聖帖」(台北故宮)や、失われたとされる
「家計帖」など九筆からなる『草書九帖』、
『蜀素帖』(台北故宮)などが書作品の代表格。


【付録画像@】 墓付近
米フツ墓は鎮江市内からは遠くない
南郊にあるのだが…市内にて販売されている
交通旅游図や各種測絵図を頼りに訪れると、
ココに到着してしまう。
非常に怪しい工業地帯である。
実際は今少し西側に墓はある。



【付録画像A】 米フツ書
鎮江市北部の焦山碑林内の「城市山林」。
これは明代刻のもの。
左下のものは同じく焦山碑林内の
「米フツ臨蘭亭及碑陰四帖」の一部。



【付録画像B】 新墓
主が入る前の真新しい墓。
北京市内の公墓なので相当な額だと思う。

最後に・・・
2011年に広東省新遠市清新県(現清新区)にて、
発掘調査中に“米元章”の文字が刻まれた墓碑が
発見された。こちらも米フツ墓である。
米氏の子孫が清宣統三年(1911年)に
重修したものとされ、始建年代は不明。
どちらが真墓か衣冠塚ははっきりしていない。


   

中国のお墓095
【李可染墓】

(1907-1989)

【北京市】

江蘇蘇州のひと。近代を代表する水墨画家。
幼少期より画を好む。13歳の頃、徐州城にて
王石谷の流れをくむ銭食芝のもとで水墨画を習う。
呉昌碩や魯迅の影響を受けながら…
泰山や西湖、武漢にて遊びながら…

40歳をすぎて郭沫若や斎白石に師事し、
独自の画風を目指すことになる。
中国美術家協会副主席や
中国画研究院院長などを歴任。
「旅游画人」


【付録画像@】 1路バス停
天安門前も走る…最も重要な路線、「1路」。
始発は5:00、終発は23:00
停留所数は24あり、行程は22qほど。
所要時間は時間帯によって大きく異なる。

90年代後半までは、長らく『馬官営〜八王墳』
の区間がルートであったが、
軌道交通「八通線」が開通した頃から、
ターミナル的に使用されていた「八王墳」が
消滅し、「四惠」まで延伸された。

一方、西側は「公主墳」から南方向へ向かい、
六里橋周辺まで走っていたものが、
地下鉄路線とほぼ同じ東西一直線のルートに
変更された。・・・2007年頃。


【付録画像A】 1路バス
2015年現在使用されている車両です。
場所は西単付近。

 

〜2015.6.2
中国のお墓090
【馬連良墓】

(1901-1966)

【北京市】

民国期を代表する著名な京劇芸術家。
美男子であったことで知られる。
梅蘭芳と同時期に活躍している。

明中期、左遷された高潔な役人“海瑞”を描いた
「海瑞免官」が代表作。
この作品が文化大革命の引き金とも。。。



【付録画像@】 臥仏寺西路
香山西側の丘陵に馬連良墓はある。
この獣道を登った先になるのだが、
更に西側の梅蘭芳墓付近から登るのが正解。

他、同地には同時期に活躍した京劇団員の
「王少楼」や「徐蘭(サンズイ+元)」の墓もある。



【付録画像A】 制御護国文昌帝君廟旧碑
話は変わり・・・
画像をよぉ〜くご覧ください。
真ん中に石碑があります。

北京市内中心部・・・
最近になり観光客で賑わいだした「南鑼鼓巷」
にほど近い場所の民家内に鎮座している。



【付録画像B】 碑面
ここは明成化十三年(1477)、
文昌帝君廟が創建された場所。

1801年の重建時の立碑。
明成化から明嘉慶年間時の修建、
重修の廟の経過が記されている。
書は劉ヨウ(大学士/書家)のもの。


   

〜2015.7.2
中国のお墓091
【袁崇煥墓】

(1584-1630)

【北京市】

明末の名将。
三国時代の諸葛亮を重ねて語られるなど、
知的な武勇伝と…部下思いであったという。
時代的には山海関を境に後金と対峙していた頃。
ヌルハチやホンタイジとの
攻防にて何れも勝利している。。

ホンタイジが長城戦を回避し北京入りをしたのち、
袁崇煥も北京を死守するべく舞い戻ったのだが、
策略にはまってしまった崇禎帝により・・・
謀反の疑いありとされ処刑されてしまう。
彼の死が明滅亡を決定的にしたという。



【付録画像@】 進士題名碑
袁崇煥は遅咲きの文官(その後武官)であった。
35歳で科挙に合格。その後殿試に及第し進士に。
北京文廟(孔子廟)内の進士題名碑に彼の名が
刻まれている。

ここの進士題名碑は198通。
元明清代の51624人の名が刻まれている。
袁崇煥は画像内真ん中(支柱のとこ)の石碑内に。




【付録画像A】 合肥汽車駅
話は変わり・・・
ここは10年前の安徽省合肥バスターミナル。
南京から高速バスに乗り夕刻に到着予定が…
事故渋滞にはまり深夜着。
ここで乗り換えて北へ向かう予定であったが、
急遽ホテル探しをすることに。
こういった事態はワクワクする。



【付録画像B】 鳳陽汽車駅
続き・・・
数日後無事に安徽省内北部の鳳陽へ到着。
この地は明皇陵や古刹龍興寺など・・・
見どころ沢山の土地である。

   

〜2015.8.2
中国のお墓092
【田義墓】

(1534-1605)

【北京市石景山区】

西安府華陰のひと。
9歳のとき浄身され宮中に入る。
嘉靖・隆慶・万暦年間を宦官として仕えた。

墓園は明代始建の壁画で有名な法海寺近くにある。
民国期に盗掘に遭い、荒廃しきっていたが、
最近になり改修整備が進み公開されている。
「宦官文化陳列室」「地下墓室」など見どころ多。



【付録画像@】 三碑
墓園内は石刻芸術の宝庫であり、神道門や
文官武官の石像生などゴロゴロしている。
漢白玉からなる神仙碑群および
香炉などから形成される石五共は必見である。

また、東亭・中亭・西亭にそれぞれ納まる
巨大三碑はそれぞれ・・・
東:田義功徳碑
中:万暦皇帝任命田義官職的聖旨碑
西:敕内官監太監田義聖旨碑



【付録画像A】 模式口大街
田義墓前の通り「石景山区模式口大街」である。
車両は少ないが人は多い。
野菜や肉などの露天商が目立つ。
また、一昔前は路上では見られなかった…
アダルト系の商品が堂々と販売されている。



【付録画像B】 中国第四紀氷川遺跡陳列館
同村には鉱物資源や化石等を展示した
中国第四紀氷川遺跡陳列館」がある。
孔雀石(マラカイト)や化石類の販売もしている。
アンモナイトは700元〜2000元ほど。。。
 

〜2015.3.3
中国のお墓087
【老舎墓】

(1899-1966)

【北京市】

その名は聞いたことがあるが…
あらためて人に聞くのも恥ずかしい。。
そんな人物かと。

彼は満州族正紅旗人で北京出身。
義和団の乱にて八ヶ国連合軍北京入城の際、
父を亡くし辛い幼少期を過ごす。
慈善家の助けもあり、高度な教育を受けられ
北京師範学校を卒業。

二十歳を過ぎキリスト教に入信後、ロンドンへ。
帰国後は山東省の大学にて教壇に立つ。
6年ほどで辞職し、執筆活動に専念。
1936年に代表作「駱駝祥子」を発表。
戦時中も軍事色の強い小説も執筆。
戦後、1957年に「茶館」を発表。
文革期に自殺(他説有)。
現在は八宝山革命公墓に眠る。

1966年に老舎が亡くなっていなければ…
同年にノーベル賞を受賞していたかも!?
…という伝説が数年後(2016年以降)に
明らかになる予定です!


【付録画像@】 新華書店
北京前門に近い場所に老舎ゆかりの「老舎茶館」
がある。が、有名すぎるので画像は省き…
前門大街周辺を少し紹介したい。
北京オリンピックに向け、前門大街は取り壊され
綺麗な?大通りへと姿を変えた。
しかしながら左右の路地(胡同)に入るとまだまだ
昔の姿を留めている箇所が多い地区である。

宣武区劉家胡同1号にある小型四合院の墻上には
「新華書店」の陰刻がみえる。
中には現在、4家族が住んでおり住人の話では
北京第一号店跡地だと豪語していた。

真相は少し異なり・・・
1937年に陝西省延安にて設立された新華書店。
新中国成立後、1951年に北京に総店が置かれた。
その総店から少し離れたこの場所が宿舎として
使用されていたらしい。
1948年、河北省にて毛沢東が揮毫した文字が
用いられた最初期の『ロゴ』であり貴重なものだ。



【付録画像A】 新前門大街
突貫工事の末、完成した大通り。
(画像は2008年完成時)
店舗はがら空き状態で人通りも疎ら。
6年が経過したが現在も賑やかさは感じられない。
ガヤガヤとした昔の前門を懐かしむ声が多いようだ。


【付録画像B】 地鉄
10年ほど前、北京の地下鉄全駅を下車したことがある。
当時は1号線・2号線・八通線・13号線のみであった。
早朝から日没まで丸3日かかった記憶がある。
現在の駅数はその5倍以上になる。
更に延伸工事が至る所で進んでいる。
今は2元でどこまでも行けるが、近く値上りするらしい。

また、車両も駅舎も綺麗になった。
一番大きく変わったのは・・・
「人民が静かになった!」ことだ。
動物園が水族館になった!と誰かが言っていた。
理由は…
乗客の100人中99人がスマホを操作しているから。
※画像は2014年11月21日11時頃の二号線車内

   

〜2015.4.2
中国のお墓088
【伊藤克墓】

(1915-1986)

【北京市】

『 悲しみの海を越えて 』

これは1982年に出版された彼女の自伝である。
東京生まれ。
13歳のときに医者をしていた父が亡くなり、
残された財産は叔父に騙し取られてしまう。
学校中退〜過酷な労働を強いられる。

中国好きな父の影響で、幼少期から
漢文を習ったりしていたこともあり大陸に
深い感情を抱いていたという。
そんな中、大阪で事業を展開していた
華僑である蔡と知り合い結婚。
1936年に中国へ渡ることになる。

戦時中は名を「鮑秀蘭」とし、
日本人であることを隠し華僑として生活した。
戦後、日中中日の相互理解を深めたいと
考え、文学作品などの翻訳に努めた。
荊軻が登場する故事「風蕭蕭として易水寒し」
から「蕭蕭」をとり、これを名(ペンネーム)とした。

1961年に帰国後は日中学院などで中国語を
教える傍ら、中国文学作品の翻訳に没頭した。
代表作に「金色の山々」がある。
また、多くのメディアを通じ日中友好を訴え続けた。

1980年、北京にいる長女と一緒に暮らすことを
許可され、再び中国へ渡り晩年を過ごす。
北京師範大学などで教鞭をとりながら
翻訳活動を続け日中友好に力を尽くした。

『日本と中国はどんなことがあっても
仲良くしなければ――。』
1978年8月に日中平和友好条約が結ばれた際に
毎日新聞紙上に掲載された彼女の言葉である。

現在、彼女は北京市郊外の万安公墓に眠る。

参考:中日の架け橋となった日本人女性
伊藤克の生涯(人民中国)



【付録画像@】 PM2.5数値
AQICNチームのHPからリアルタイムな
大気汚染数値をみることが出来る。
PM2.5やPM10、温度や風速なども。。。
北京市内だけでも数十か所の
観測地点があり、とても便利。
画像は2014年11月27日の午前1時
北京中心部:PM2.5数値 【 515 】。

ちなみに日本の環境基準では・・・
1年平均値15以下、1日平均値35以下が
望ましいとされ・・・70を超えるとTVなどで
ニュースになるレベルである。。。

また、同じ11月の上旬に北京でAPECが
開かれていたときは概ね100前後で
推移していて…「APECブルー」と
命名されていた。覚えてますか?



【付録画像A】 三環状
一昔前は上海汽車や第一汽車と販売協定を
結んでいるフォルクスワーゲンだらけでしたが…
BMWやAudiなど高級車が多くなりました。
トヨタや日産、ホンダ車も。

現代は2002年に合弁会社北京現代が設立後、
タクシーを中心に驚異的な早さで浸透した。
※現代=ヒュンダイ
また、ベンツ系が少なくなったかな?という印象。

90年代まではこの建国門あたりでも馬車(ラバ・ロバ含)
が往来していたことがウソのようである。

北京と上海を比べると上海のほうが超高級車を
みかけることが多いかと。
フェラーリやベントレーなどもよく走ってますし。


 

〜2015.5.2
中国のお墓089
【梅蘭芳墓】

(1894-1961)

【北京市】

清末〜近代まで活躍した女形を代表する京劇俳優。
中国京劇「四大名旦」のひとりである。
代表作は「宇宙蜂」や「霸王別姫」など。

関東大震災後のチャリティーなど、
幾度も訪日公演を行う中、日本の歌舞伎にも
触れ、京劇の古典に新風を吹き込んだ。

恭王府の近くに晩年過ごした四合院が
残されており、記念館として公開されている。
京劇に興味のあるかたは是非どうぞ。


【付録画像@】 香山
北京市内からピクニックで訪れるひとが多い
風光明媚な場所だ。
今はバスを乗り継いで来なければならないが
近々地下鉄も開通するのでとても便利になる。


梅蘭芳墓は香山の西側にある。
画像は墓に近い香山東方紅幼稚園付近。




【付録画像A】 ホームレス
話はガラリと変わり・・・

2008年の北京オリンピック期に市内の
ホームレスが強制排除された。

その後も追い出し作戦がたびたび行われている。。
ボランティアから提供された防寒具が警察などに
奪われる(取り上げられる)こともあったようだ。

リオでもそうであるように東京でも強制排除が
行われるのか…そんな話題もあるみたいですね。


【付録画像A】 穴
更に話は別次元へ・・・

北京市中心部から南西の豊台区にこの穴がある。
画像は2014年11月28日。

12年前の2002年同日、今は塞がれているこの穴に…
私は落ちました。
穴は60p×120p×深さ3メートルほど。
(当時はマンホール盗難が頻発していて穴だらけ)

河北省をグルグルして帰ってきて、
テクテクと夜道を歩いていたら、スポッと落ちて
肋骨3本折れてしまいました。

幸いここは北京。日中友好病院の
国際医療部に掛かることが出来ました。
更に幸いなことにこの時、ここ20年のうち唯一
友人と一緒に旅をしていた為に助かりました。

しかし…その時に限って保険に入っておらず
全額自腹で払いました。

    




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