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![]() 〜2014.11.1 中国のお墓084 ≪麻浩崖墓≫ (漢) 【四川省楽山市】 四川にて漢〜南北朝期に用いられた横穴式墓室。 楽山崖墓の数は3万基とも5万基とも。 その中で最も集中して現存するものが 凌雲山にあるこの「麻浩崖墓」である。 一族の墓が上下左右の横穴に置かれ、、 蜂の巣とも呼ばれている。 ![]() 【付録画像@】 崖墓内石室 麻浩一号崖墓は奥行が30m近くもある。 早期に盗掘されてしまっていたが、 残された文物は併設されている博物館に 展示されている。 ![]() 【付録画像A】 荊軻刺秦(王)石刻 崖墓入口付近には多くの石刻芸術がみられる。 画像…侍臣・秦王政・荊軻・衛士・舞陽(踊り子)が描かれ、 「荊軻刺秦王」場面の善悪を物語っている。 すぐ傍には「西王母賜薬図」も刻まれている。 この図は漢代の人々が不老不死の薬を求めて (信じて)いたことから、多くの崖墓にて同石刻を 見ることが出来る。 ![]() 【付録画像B】 凌雲山 麻浩河北岸(右側)の山が凌雲山。 崖墓はこの辺りに密集、点在している。 凌雲山の向こう側には皆さんご存知の 「楽山大仏」があります。 次回は他の崖墓と共にお伝えします!? |
![]() 〜2014.12.2 中国のお墓085 ≪楽山崖墓≫ (漢) 【四川省楽山市】 前回に引き続き四川の崖墓を紹介。 楽山を流れる岷江一帯には多くの崖墓があり、 楽山崖墓と呼ばれる。前回の崖墓はその中の 一部分となる。多くは朽ちており、調査も道半ば。 周辺の山々に分け入り探してみるのも楽しい。 ![]() 【付録画像@】 麻浩漁村 長江の支流、四川を代表する河川「岷江」。 麻浩崖墓(前回の崖墓)に近い漁村に 「田三哥」と呼ばれる漁師が住んでいる。 ここ数十年は船上生活をしているそうだ。 岷江での水難者を救出する為に。 場所によっては非常に急流な河川である為、 毎年のように水難事故が起きている。 本名は「田質彬」といい、70歳を超えている。 事故の一報が入ると漁師や観光客を助けるべく 出動し、これまでに30人以上の命を救ってきた。 スーパーおじいちゃん(見た目はとても若い!) に会いに訪れてみては? ![]() 【付録画像A】 楽山大仏 その漁村の上流にある世界遺産であり 世界最大の大仏「楽山大仏」。 像高は59.98mあり、頭高だけで14.7mもある。 奈良の大仏の約5倍となる。 画像左の崖に急な階段が作られていて、 観光客はそれを下り見学する。(別ルートも有) 健脚でも足がすくむ階段である。 足元から全体像はよく見えないので、 時間があれば船上から拝むことをおススメする。 ※画像は船上からのもの。 ![]() 【付録画像B】 天下奇碑 A画像の左下をご覧ください。 岩壁にある「嘉州凌雲寺大弥勒石像記」だ。 864字。8世紀後半に刻まれ、 北宋、明、民国期と幾度となく重刻されている。 訪れる機会があったら大仏だけではなく、 碑高6.6mのこの奇碑も是非みてみよう! |
![]() 〜2015.1.1 中国のお墓086 ≪八宝山人民公墓≫ (近現代) 【北京市石景山区】 書の題材に用いられる「墓誌」・・・ 石碑鑑賞のひとつとして廻り始め、 ここ10数年は古墓巡りに明け暮れている。 今回の北京では近現代の墓巡りを多くしてきた。 今後暫くは、これらを紹介したい。 「このひと知ってる!」という人物も出てくるかと。 〜お付き合いいただけると幸いです〜 ![]() 【付録画像@】 現代墓 セピア色の画像およびこの写真は最近の墓である。 中国では毎年900万人が亡くなり・・・ 都市部での墓不足が90年代から問題となっている。 当然のことながら価格も高騰し、、、 普通墓で70万円〜、豪華墓や芸術墓などは120万円〜 実情は青天井で数千万という数値も耳にする。 ![]() 【付録画像A】 近代墓 八宝山人民公墓には大きく「老区」と「新区」に 分かれており、ここは老四区と呼ばれる清末〜 民国期あたりに亡くなったひとが埋葬されている。 もっとも、この公墓は1950年8月1日創建なので、 別の場所から移されてきたものも多い。 ![]() 【付録画像B】 西門 正式には南部の革命公墓からの通りが正門らしいが、 現状、この西門が正門の役割をしている。 無論のこと守衛がいる。 机が置かれ、座っている自分がそのひとだ。 墓園内にも警備員がグルグル廻っている。 素通りしようとすると「何しに来た?」と声を掛けられる。 でもまぁ、なんとかなるものである! |
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![]() 〜2014.8.2 中国のお墓081 ≪殷墟甲六墓址≫ (BC1300〜1046頃) 【河南省安陽市】 『殷墟』・・・商代後期の都城所在地です。 1899年の清末、皇帝の秘書官であった王懿栄は 漢方薬に用いていた竜骨(化石)に、青銅器などに 刻まれている銘文に似た記号があるのに気付く… 八ヶ国連合軍北京入城期に王懿栄は自殺してしまうが、 劉顎や金石学の専門家などの研究を経て、、、 甲骨文の発見&殷墟の発掘に至る。 13基の王陵のほか、2000を超える殉葬坑や祭祀坑 があり、皇族墓のみならず庶民の墓も多い。
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![]() 〜2014.9.2 中国のお墓082 ≪南唐二陵 欽陵≫ (937-943) 【江蘇省南京市牛首山】 鄭和の眠る墓から2qほど南に南唐二陵がある。 006にて二陵のうちのひとつ「順陵」を紹介した。 今回はもうひとつの「欽陵」という南唐初代皇帝の 李昇とその皇后が眠る墓である。 南唐=五代十国時代 この欽陵と順陵の発見は最近の出来事である。 1950年に夫子廟の市場にて骨董品を売る 不審な人物を警察が尋問したことから発見に至る。 盗掘品を売りさばいていたということだ。 その後、3ヶ月ほどかけて発掘調査が行われ、 文物640件余りが出土している。 ![]() 【付録画像@】 出土した陶俑 陳列館では、南唐の概要から出土品展示など・・・ こじんまりとした館ではあるが勉強になる。 ![]() 【付録画像A】 珍珠泉索道 処変わって…南京市街の別方向。 長城マニアの私は是非訪れてみたかった場所。 ![]() 【付録画像B】 南京長城 それは・・・造っちゃった長城。。。 中国のスケールは物凄いものがありますね。 |
![]() 〜2014.10.5 中国のお墓083 ≪金仲華墓≫ (1907-1968) 【上海市】 浙江省桐郷出身。新聞や雑誌の創刊編集など、 民国期から建国後にかけてメディア界で活躍した人物。 国際問題評論家としても知られている。 杭州之江大学卒業後、商務印書館に入社。 その後開明書店や生活書店にて雑誌編纂の職につく。 この頃から国際問題の研究に着手したようだ。 戦時中は抗戦雑誌系の編集をし、 中国民主革命同盟にも参加している。 建国後は上海市副市長などを経て、 全国人民代表大会代表に名を連ね、上海日報社長、 中国新聞社社長などを歴任している。 文革期に反革命分子とされ迫害を受けながら 1968年4月3日、失意のなか自殺。 1978年に名誉回復・・・ 現在は宋慶齢陵園(万国公墓)内にて眠っている。 ![]() 【付録画像@】 上海福州路 開明書店発行所のあったあたり。 1933年暮れから金仲華がここで働いていた。 福州路は書店街として古書店や文房四宝を扱う店舗が 軒を連ねていたが、最近は様変わりしつつある。 上海楊振華筆廠および楊振華書廊は健在だ。 ![]() 【付録画像A】 新聞雑誌販売 リヤカーに積んでの…露天商。 地図を購入するのに一時期大変お世話になった。 |
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![]() 〜2014.5.2 中国のお墓078 ≪民間墓≫ 今回は特定人物墓ではなく、一般人のお墓です。 中国ではもともと古代より土葬が主流であったが、 中華人民共和国成立後は国策として火葬を 推進するようになった。 どこの国も同じなのか、、、北京や上海などの 都市部の墓苑では・・・一区画あたりが年収を 超えてしまうなんて話もよく聞きます。 農村部ではまだ土葬文化も残っている。 また、最近では墓地確保の必要のない 「海洋葬」や「樹木葬」なども行われている。 また、チベット方面では「鳥葬」も残っている。 ※2006年以降、観光客は見学禁止になっている。 ![]() 【付録画像@】楹聯その一 河南省偃師郊外 裕福な家のものは墓碑が置かれている。(奥3基) ![]() 【付録画像A】 四川省成都郊外 波打つ・・・こんもりしたものが全てお墓です。 ![]() 【付録画像B】 浙江省杭州の南山陵園 都市部の典型的な墓苑である。 ![]() 【付録画像C】 福建省泉州の伊斯蘭教聖墓 イスラム聖墓最大級の墓苑。 |
![]() 〜2014.6.2 中国のお墓079 ≪明定陵≫ (1563-1620) 【北京市昌平区】 明十三陵中、唯一発掘が完了している陵墓である。 長陵・昭陵と共に一般公開されている。 定陵は明朝十四代皇帝の墓。=万暦帝。 10歳のとき即位し、当初は宰相(張居正)の仁政により 国内は落ち着いていたが、張居正が死去後は・・・ 身内の騒動や軍政腐敗などにより、、、 堕落した暗君となってしまった。 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の朝鮮援助へ出費も 財政を悪化させた要因である。 しかしながら48年・・・ 明代では最長の在位期間である。
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![]() 〜2014.7.1 中国のお墓080 ≪劉湘墓≫ (1888-1938) 【四川省成都市】 四川大邑出身の軍人。 清光緒年間に四川省陸軍に入隊し、 四川統一を目指し徐々に頭角を表していく。 貴州軍の袁祖銘と手を組むが直ぐに対立、 国民党への傾斜を深めつつ、 親族の劉文輝と手を組むが、のちに対立。 国民党(蒋介石)に近づき四川省政府主席になる。 その後、蒋介石とも距離をおくこととなる。 昨日の友は今日の敵!? 日中戦争勃発後は四川省軍の指揮をとる。 1938年(民国27年)に急死(死因は不明)。 また、劉湘墓は劉備墓の傍に置かれているが、 劉備の子孫というわけではない。
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![]() 〜2014.2.2 中国のお墓075 ≪唐寅墓≫ (1470-1523) 【江蘇省蘇州市】 字:伯虎、号:六如居士。 明代の比較的安定した時期に活躍した書画家。 祝允明・文徴明・徐禎卿と共に『呉中四才』。 沈周・文徴明・仇英と共に『明四家』と呼ばれる。 代表作に「山路松声図」や「江南農事図」などがある。 当初は丹陽横塘鎮(蘇州の西)にに埋葬されたが、 明嘉靖二十二年(1543)に現在の場所に移された。 動乱期を経て荒廃してしまったが、1955年に 大規模修復が行われ現在に至る。 ![]() 【付録画像@】唐寅墓誌銘(画像は其の一) 唐寅墓誌銘の撰者は祝允明。書は王寵。 二人ともく蘇州出身でほぼ同年代に活躍した書家である。 先輩:祝允明、後輩:王寵。 ![]() 【付録画像A】唐寅故居付近 東洋のベニスと称される蘇州。 市内には運河が張り巡らされている。 北京⇔杭州間の京杭大運河もここを通っている。 唐寅は30代のときこの運河を利用し鎮江へ赴く。 その後揚州、廬山、黄州へと足を運び『赤壁図』を 残している。遠くは福建まで延べ9ヶ月ほど 各地を闊歩している。多くは船旅であったという。 ![]() 【付録画像B】福建省仙游県 福建を訪れた唐寅は仙游の九鯉湖を訪れている。 風光明媚なこの地・・・ 中国夢文化(祈夢文化【※】)発祥の地とされ、 多くの文人墨客が訪れている場所だ。 【※】同じく蘇州のひと「王献臣」の話が 有名なので調べてみてください。 で、仙游県へは行ったことがあるのですが 残念ながら県内九鯉湖へは未到達。。。 また、仙游は犬肉屋さんが他の地域よりも多い気が… 首なし犬が吊るしてあるので「ギョッ」としてしまう。 |
![]() 〜2014.3.2 中国のお墓076 ≪潘天寿墓≫ (1897-1971) 【浙江省杭州市】 字:大頤、号:雷婆頭峰寿者 浙江寧海出身の近代書画家。 浙江第一師範学校卒業後、上海民国女子工校や 上海美術専門学校(上海美専)にて書画を教える。 その後上海美専の教授を経て杭州国立芸術院や 新華芸術専門学校などで教壇に立つ。 日中戦争〜文化大革命期の激動の時代のなか、 伝統的な中国画の在り方を模索し続けた。 花鳥画から山水画まで多くの作品を残している。 独特の運筆から生まれる強烈な線画は 荒々しさと粛然とした様が同居している。 墓は杭州西湖南の九曜山南麓にあり、 夫人と長男との合葬墓。 長さ40メートルの天閣詩亭が併設されている。 ![]() 【付録画像@】潘天寿故居 1940年代建築で長らく住まいとしていた故居が 潘天寿紀念館として開放されている。(西湖の東) 小さいながらも作品の展示数は多く、 寝室やアトリエなども見ることが出来る。 ![]() 【付録画像A】九曜山隧道 世界遺産の西湖南にある太子湾公園から 獣道を進み山越えして潘天寿墓へ向かいました。 周辺の玉皇山や青龍山、九曜山には呉越遺跡や 名所が点在している。 890mあるこの隧道は空調が完璧! 深呼吸が出来るほど綺麗な空間でした。(驚き!) (交通量はそこそこあります) 隧道を出て西湖街道浄寺社区内に墓があります。 ![]() 【付録画像A】潘天寿彫像
多くの文人との交流をもった潘天寿。 なかでも呉昌碩(1844-1927)とは 「忘年交」として絵画や篆刻について語り合ったという。 西湖孤山の西冷印社のすぐ近くにこの彫像がある。 |
![]() 〜2014.4.1 中国のお墓077 ≪蘇小小墓≫ (5世紀後半) 【浙江省杭州市】 西冷印社のある孤山へ通ずる西冷橋。 そのたもとの慕才亭にこの「蘇小小墓」がある。 蘇小小は南朝斉の名妓であった。 その才能から多くのひとに慕われていたが、 若くして亡くなってしまった。 彼女が幇助していた書生が栄進して高官となり、、、 お礼に訪れたとき…彼女はこの世を去った後であった。 書生は西冷橋のたもとに小小の墓を建て、 その東屋を「慕才亭」と名付けた。 唐の詩人「李賀」の『蘇小小慕』をはじめ、白居易や 杜牧などが小小の人柄や人生を詩に残している。 蘇小小墓の慕才亭には6本柱があり、 柱全て(24面)に、篆隷行草の各書体を用いた 聯文が刻まれている。楹聯(えいれん)の集合体だ。 ![]() 【付録画像@】楹聯その一 画像は浙江省杭州郊外の龍門古鎮にある天子堂。 ここでも三対の楹聯が掲げられている。 楹聯の「楹」とは天井と床の間にはった太い柱の意で、 対聯を門柱などに掲げたものを楹聯と呼ぶ。 素通りされがちなこれらの作品が近年脚光を 浴びており、江南では古寺や庭園に掲げられている 楹聯を専門に研究し本にまとめる動きが出ている。 と、ここ龍門古鎮の住人の90%以上は孫姓である。 三国時代の孫権の末裔が多く暮らす村であり、 集落全体が観光地化されている。野良犬多数。 ![]() 【付録画像A】楹聯その二 「中華民族の塊宝」と称される楹聯。 この手の対聯は仕様により「門対」「対子」「桃符」等の 呼び名があり、春節時期に門柱に掲げられる文句は 「春聯」、葬儀の際に送られるものは「挽聯」。 画像は陝西省韓城にある基督教会。 ![]() 【付録画像A】楹聯その三 こちらは墓誌マニアは是非訪れてほしい・・・ 河南省新安県鉄門の千唐誌齋。 ご旅行の際には是非・・・ 扁額や楹聯も鑑賞してみてください! |
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![]() 〜2013.10.1 中国のお墓 072 ≪永寧陵 南朝陳文帝陳セン墓≫ (522-566) 【江蘇省南京市】 南朝「陳」の二代目皇帝陳センのものとされる陵墓。 「天禄」、「麒麟」の各1基が現存する。 初代皇帝(武帝)の甥にあたり、武帝亡きあと帝位につく。 領土も縮小し情勢は厳しく国力は衰退していたが、 厳しさの中でも一時の平穏をもたらした名君であった。 在位7年で病死。その後はお家騒動等を経ながら 時代は「隋」へと変わっていく。 近年の大規模調査により、この周辺から 南朝期の大型墓が発見され、今年2013年1月には「文帝」の 陵墓であることが極めて高いとの報道がされている。。 ※これまでは未確定要素が強かったらしい。 この大発見をうけて…この地にでは 『南朝石刻博物館』建設と『帝陵公園』整備が決まり、 数年以内にはオープンする見込みである。 ※上記画像の原野風景は2003年のもの。 ![]() 【付録画像@】白馬石刻芸術博物館 南京市内玄武湖東側の白馬公園内。 六朝期〜宋〜明〜清(殆どが明朝期)にかけての 100基以上の石刻が屋外展示されている。 石刻は江南中心に全国からのもの。 六朝石刻を極める前に全体像としての鑑賞には もってこいの場所である。 ![]() 【付録画像A】南京長江大橋(昼) 画像@で南京まで来ましたので・・・南京の橋を。 上段:自動車道 下段:鉄道 全長4589m(道路部)の橋梁。 8年の歳月をかけて1960年に完成。 大橋公園からエレベーターに乗り(有料)橋上部を 見学出来、橋の歩道に出ることが出来る。 年間自殺者数十人・・・とのことで夜間は少し怖い。 ![]() 【付録画像B】南京長江大橋(夜) 画像Aで『夜は少し怖い』との記載をさせて いただきましたところ・・・ 「お前は夜に行ったことがあるのか?」 との連絡がございました。※匿名にて 90年代に夜歩いた際の写真があると思いましたが紛失。 スミマセン。この写真は2000年時のもの(車内から)。 ※安徽省方面から南京市内へ向かう橋の上です。 |
![]() 〜2013.11.5 中国のお墓 073 ≪秋瑾墓≫ (1875-1907) 【浙江省杭州市】 紹興のひと。出身は福建省厦門。 救国救民を謳い、反清革命運動を起こした 「革命詩人 秋瑾」の墓所である。 北京にて二児の母であったが、夫との関係が悪化… 家族と離れ日本に留学する。=1905年 孫文率いる中国同盟会に参加するも 清国の要請にて革命運動の取り締まりが強化され 翌年に帰国。その後、紹興を拠点とし 武装蜂起に向けて準備を進める。 が、計画途中にて各会党との連携がうまくいかず… 紹興に留まっていた秋瑾は清軍当局に 包囲され逮捕されてしまう。 ![]() 【付録画像@】秋瑾烈士記念碑 紹興市中心部にある古軒亭口門付近。 (※明け方の風景。逆光でスミマセン。) 解放北路と府山横街の交わるココに記念碑があり、 その奥に秋瑾像が建てられている。 「大通学堂」にて清軍に捕らわれた秋瑾はその二日後、 この場所にて公開処刑(斬首)された。=1907年7月15日 杭州西湖湖畔に埋葬されたが、1909年に湖南省湘潭へ。 辛亥革命後の1912年に現在の場所に移された。 碑文は蔡元培撰写(=元北京大学学長) ![]() 【付録画像A】通遼汽車駅(バスターミナル) ※画像は秋瑾とは全く関係ございません。 ふと10年前(2003年秋)に私はどこに居たのかと思い・・・ 調べてみましたら内モンゴル自治区の通遼にいました。 この地は建国後・・・1969年まで内蒙古自治区ジェリム盟、 その後吉林省ジェリム盟となり、 1979年に再び内蒙古自治区の管轄に、 1999年に現在の通遼市(地級市)に昇格した土地である。 10年前…モンゴル書道に興味を持っていた時期でした。 |
![]() 〜20143.12.7 中国のお墓074 ≪東魏 孝静陵≫ (524-551) 【河北省磁県】 南北朝『東魏』(534-550)唯一の皇帝「元善見」の墓。
元善見は北魏孝文帝の曾孫にあたる。 陵園はほぼ正方形で東西・南北ともに約1300m。 封土は円丘形で高さ約25.3m、円周は約750m。 陵墓は天子塚とも呼ばれている。 墓台頂上には小さな祠が幾つか有り、 「関帝廟」も置かれている。 付近の磁県東南部は北朝期の古墓が点在しており、 確認されているものだけでも134座。 洛陽や西安郊外の陵墓群には及ばないものの、 墳墓マニアにはたまらない土地だ。 『蘭陵王碑』で知られる北斉高粛墓もこの地にある。 ![]() 【付録画像@】孝静陵より南を望む 少し南へ行けば殷墟のある河南省安陽という位置。 北京から保定-石家荘-邯鄲(磁県)-安陽-鄭州への 国道107号沿い『黄金ルート』は数十秒に1台 バスが通るので移動にはとても便利です。 ![]() 【付録画像A】縣界碑 国道から少し東へ移動し・・・ 左(西)は磁県、右(東)は三国遺跡で有名な臨ショウ県。 畑の中をグルグルしていたら見つけたものです。 ・・・特に古くも珍しくもない標です。 ![]() 【付録画像B】小南海石窟中窟 「方法師鏤石板経記」 最後に…書に関連するものを。。。 これは東魏から北斉へ禅譲された550年 (東魏武定八年=北斉天保元年)、 「大齊天保元年」の記述から始まる経記碑である。 ※刻経は560年 前述「孝静陵」のある河北省磁県の南にある河南省安陽。 その中心部から南西へ約25q行くと『霊泉寺石窟』がある。 その石窟群内の『小南海石窟』内の『中窟』のものである。 『霊泉寺石窟』本体と『小南海石窟』は5qほど離れている。 |
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![]() 〜2013.7.1 中国のお墓069 ≪鄭成功墓≫ (1624-1662) 【福建省泉州市南安】 平戸にて…当時海商であった「鄭芝龍」と 平戸藩士の娘「田川松」との間に生まれる。 名は「森」。幼名は「福松」。 6・7歳のころ大陸へ、 その後厦門や南京にて勉学に励む。 1644年、李自成の乱により『明』が滅び『順』が建国。 その後すぐに山海関からの 入関により『清』の時代となる。 各地で「反清復明」を掲げて清に抵抗する 勢力が生まれ『南明』が興る。 鄭森は隆武帝(南明二代目皇帝)に 気に入られ…以後、鄭成功と名乗り 北伐(反清)の陣頭指揮にあたる。 幾度かの敗北ののち、台湾へ渡り態勢を立て直そうと するが志半ばでこの世を去った。 当初は台湾台南の塩洲里に埋葬されたが、 鄭氏政権終焉後に大陸に移された。 ![]() 【付録画像@】鄭成功碑林 1962年(台湾鄭氏政権樹立300周年の年)、 福建省泉州南安市石井鎮に鄭成功紀念館が建てられた。 鄭成功墓からは車で15分ほどの場所である。 陵墓からの出土品などの陳列のほか、詩刻中心に 纏められた碑廊を有する鄭成功碑林がある。 郭沫若をはじめ、元平戸市長の油屋亮太郎さんほか フランスやインドネシア、米国からの書も並ぶ。 ![]() 【付録画像A】石 福建省泉州の南安や恵安周辺には石材関連の会社が 集中している。墓石・墓碑から各種彫刻品、建設資材など。 「○○家之墓」と刻まれた日本へ渡る石も多く見かけた。 工場からの粉塵が空を覆い・・・非常に非常に空気が悪い。 ※画像は工場地帯からは離れた国道324号沿いの 石材露店が並ぶ場所。 ![]() 【付録画像B】バス亭 福建省泉州市・・・市全体では800万人近い人口を有する 巨大地方都市である。移動は路線バスがとても便利だ。 どのバスに乗ると何処へ行けるのか・・・ 行先表示板&地図との睨めっこ・・・至福のひと時である。 |
![]() 〜2013.8.2 中国のお墓070 ≪珍妃墓≫ (1876-1900) 【河北省易県西陵鎮】 清西陵崇陵妃園寝に眠る光緒帝の妃。 (清西陵=北京から南西へ110q) 満州八旗の他他拉氏である彼女が姉妹で光緒帝の 妃となり、24歳のとき北京城内の井戸で亡くなる・・・ この悲運の生涯は各種演劇や映画、テレビドラマなどで 多く題材として取りあげられている。 日本では浅田次郎の小説「珍妃の井戸」が有名だ。 ![]() 【付録画像@】珍妃の井戸 1900年夏・・・八ヶ国連合軍が北京入城・・・ 8月14日、西太后と光緒帝は北京を脱出、西安へ。 同日、珍妃はこの井戸の中で亡くなる。その死には いろいろと説があるようですが真相は分かりません。 翌年、井戸から遺体が引き揚げられ、北京城外の 恩済庄に埋葬される。その後1913年12月13日に 光緒帝の眠る清西陵に移された。 現在、その隣には「珍妃」の姉「瑾妃」の墓台もある。 ※瑾妃は清西陵に埋葬された清皇族の最後の一人。 ※溥儀墓は近くですが「清西陵寝陵区」ではない。 また、「こんな狭いところ(井戸)に人が入れるのか?」 との話をよく耳にしますが・・・ 現在の井戸は民国期に重建されたものらしい。 ![]() 【付録画像A】燕下都遺跡 清西陵より直線距離で15qほど東南へ行くと 戦国時代燕国の別都「燕下都」の遺跡(古城)がある。 燕の築いた長城の北西端にあたり、重要な地であった。 東西8キロ南北5キロという広大な遺跡内には 武陽台や張公台、望景台をはじめ多くの宮殿区跡が 残されている。(無論、朽ちてます!) 画像は宮殿区跡。幾つもの横穴は…「何かないかな?」 ・・・という盗掘の痕である。足元には無数の陶片や 瓦当片が散らばっている。お宝だらけである! ちなみに清西陵の時代よりも2000年前のもの。 ![]() 【付録画像B】紫荊関鎮 今度は清西陵から北西へ直線で16キロほど進むと・・・ 西漢期「上谷関」、東関期「五ゲン関」〜 金代には「金坡関」と称され、 現在、「紫荊関」と呼ばれる要所がある。 10年以上訪れていないが、最近は必要以上の『修復』が 施され・・・観光地化されたようである。 と、暗いこの画像は紫荊関鎮の1件宿に泊まった際・・・ 寒くて眠れないので軍用のコートを購入しに訪れた店。 このときは24時間中20時間ほど停電で、 夕食も蝋燭の灯りが頼りであった。 ※蛍光灯の明りに見える光はカメラのフラッシュ。 店内は・・・左下のおばちゃんがもっている蝋燭のみ。 |
![]() 〜2013.9.5 中国のお墓071 ≪丁鶴年墓≫ (1335-1424) 【浙江省杭州市】 元末から明初に活躍した色目人の詩人である。 武昌出身。字は永庚。ムスリム。 標石には「元代回族大詩人丁鶴年墓亭」と刻まれている。 多くの詩を残している(丁鶴年集)。 回族医学にも精通していた彼は 1405年に北京菜市口に薬店「鶴年堂」を開設している。 世界的に有名な老舗北京同仁堂(1669年創業)よりも 200年以上の歴史がある。 「先に鶴年堂が出来て後に菜市口が出来た・・・」という 言葉が残されているくらいである。 丁鶴年は90歳のとき杭州にて没。 以下、上述のお墓とは全く関係の無い画像です ![]() 【付録画像@】バスは一日一度来る 遼代遺跡探索の為、内蒙古自治区を訪れた際のお話です。 巴林右旗にある11世紀創建の白塔(釈迦如来舎利塔) や周辺の遼代陵墓群をみて、地元の招待所に宿泊。 宿があることが不思議なくらいの僻地である。 ※200qほど北へ進むと外蒙古(モンゴル国)。 次の目的地の巴林左旗(林東)へは早朝の4時頃に ここをバスが通過するので、それを捕まえないといけない。 乗り遅れるとまた次の日になってしまう。 翌朝、宿の主人も起きてくれて一緒にバスを待つ。 8月とはいえ肌寒くブルブルと震えながらであった。 画像は乗車して2時間ほど経過した5時40分頃の車内。 地方にてバスに乗ると毎回思うのだが、乗客は皆 前の席から詰めて座っていく。マナーというよりも 乗降しやすいからということらしい。 ![]() 【付録画像A】幸福之路 その後、無舗装の山道を更に3時間ほど降りてくると ようやく人工的なモノが見えてくる。「幸福之路蘇木」だ。 ※「蘇木」とは行政単位の郷級で「鎮」に相当 この街で4〜5人が乗り降りし、暫しの休憩となる。 画像の通りがメインストリート。右の建物は なんでも揃う「総合商店」である。 その後暫し走ると国道303号に合流。舗装された道を 猛スピードで東へと進み「林東」に到着する。 以上、ある日の移動の様子でした。(10年以上前) |
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![]() 〜2013.4.3 中国のお墓066 ≪漢安帝陵≫ (94-125) 【河南省孟津県送庄郷三十里鋪村】 東漢第六代(106-125)皇帝劉コの陵墓(恭陵)。 東漢(後漢)成立と三国時代の中間期。 在位中は毎年のように各地で飢饉や反乱が起こり 安寧の世とはかけ離れた時代でした。 32歳のとき南巡中に客死。 ・・・すみません。この時代は良く分かりません。 ![]() 【付録画像@】秦函谷関 ![]() 【付録画像A】漢函谷関 @秦函谷関 河南省霊宝市 A漢函谷関 河南省新安県 時代的には@Aの順。 秦函谷関は陝西省との境に近い霊宝市にあり、 漢函谷関は漢安帝陵のある孟津県の西隣の 新安県にある。距離にして150qほど離れている。 西漢元鼎三年(前114年)に現新安県に移設された。 秦関は真新しくテーマパーク化されてしまったが、 一歩古道へ入ると険しくそして静まり返っている。 木陰から孟嘗君が出てきそうな気配すらある。 漢関は付近に古橋などもあり、 古跡マニアにはたまらない場所だ。 さて、『箱根の山は天下の険、函谷関もものならず・・・』 の函谷関はどちらのことでしょうか? ![]() 【付録画像B】 ![]() 本題に戻り・・・ バス車内からの撮影でして不鮮明でスミマセン。 河南省洛陽の孟津県を中心とした 黄河南岸一帯の黄土丘陵地帯を「ボウ山」と呼ぶ。 道教聖地としても知られるこの地には、東(後)漢/曹魏/ 西晋/北魏の10数基の皇帝陵墓があり、陪葬墓も 含めると1000基以上となる。 お墓ゴロゴロ・・・画像からもお分かりいただけるかと。 90年代から西安郊外の陵墓群と合わせ、制覇しようと 訪れてはいるのですが・・・難しいですね。 ![]() 【付録画像C】青空 澄んだ青空は気持ちいい! オリンピックイヤー2008年12月の北京飯店付近。 |
![]() 〜2013.5.3 中国のお墓067 ≪キョウ雲環寝域≫ (1874-1926) 【福建省厦門市コロンス島】 「キョウ雲環」は台湾板橋林家系で実業家・教育家として 知られる「林爾嘉」の夫人である。 島内の菽荘家園付近にて眠っている。 ![]() 【付録画像@】キョウ雲環詩刻 林氏の別荘地であった「菽荘家園」内の岩壁。 1919年に園内の四十四橋が落成した際に詠まれた もので、洛陽萬安橋記碑からの集字(楷書)である。 と、非常に見づらく申し訳ないが・・・画像内には 三首刻まれていて、中央の赤字が消えかかっていて 落款合わせて4行の七言絶句がそれである。 ![]() 【付録画像A】コロンス島港 大人気観光地…朝から晩まで旅行者だらけである。 日光岩をはじめ、ピアノ博物館などがあり、 夏には綺麗な砂浜のあるビーチがイモ洗い場に変身する。 洋館の建ち並ぶエリアに入ると「何処の国?」と錯覚する。 また、磨崖石刻(近代)も多くみられるほか、収蔵数が多い 刻字博物館もあるので一息つける。 ![]() 【付録画像B】 負の遺産 アヘン戦争〜南京条約〜共同租界〜太平洋戦争・・・ 厦門付近には砲台跡やトーチカが数多く残されている。 島内のビーチ付近ではトーチカの上に貝殻細工などの 土産物を並べて商売している姿も見られた。 観光地化されている厦門の「胡里山砲台」は まるで「ナバロンの要塞(←映画参照)」である。 |
![]() 〜2013.6.3 中国のお墓068 ≪瞿鴻機墓≫ (1850-1918) 【浙江省杭州市】 “ ク コウキ ”…湖南善化(長沙)のひと。清末光緒年間、 軍機大臣、政務大臣などを歴任した人物。 【翰林院】編修にも就いていたことや詩も幾首か 残している為、文化人としての顔も。 辛亥革命後、上海に逃れその後病死。 【翰林院】…勅書の起草〜国史の編纂などの担当役所。 ![]() 【付録画像@】乾隆詩碑残碑 瞿鴻機墓は中国十大古刹のひとつ「霊陰寺」西側の 「永福寺」境内にある。霊陰寺は杭州を訪れたひとは必ず 立ち寄る名刹であるが、「永福寺」および更に高峰にある 「韜光寺」まで足を運ぶ観光客は殆どいない。 画像の残碑には乾隆帝が1760年頃、この地を遊覧した 際に詠んだ五言詩/七言詩が刻まれている。(韜光寺) ![]() 【付録画像A】大布袋弥勒佛(2011年撮影) 東晋(326)創建の「霊陰寺」には 「飛来峰造像景区(飛来峰=霊鷲峰)」がある。五代〜 元までの500年間に造られた石刻芸術を拝める。 画像の布袋弥勒佛は10世紀頃のもので、 この石造群の代名詞的石刻である。 数年前〜落石と足場崩落が起こり、近寄れなくなった。 ※現在は分かりません。(右下画像は2004年時) ![]() 【付録画像B】北高峰 「霊陰寺」後方に聳える頂で杭州市内が一望出来る(ハズ)。 ※幾度か訪れているのだが毎回モヤっている。 少し前までは山道をクネクネと登らねばならなかったが、 今はロープウェーで数分だ。画像中央の碑亭には 毛沢東詩碑が置かれている。ロープウェー駅の待合室には 毛沢東が訪れた際の写真が沢山飾られている。 ここから北側へ山を下ると立派な法華寺や東岳廟がある。 その道「西馬路」にはのら犬が沢山いるので要注意! |
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![]() 〜2013.1.1 中国のお墓063 ≪張憲墓≫ (?-1142) 【浙江省杭州市】 杭州西湖北西の湖畔に静かに眠っている。 彼は抗金名将岳飛の側近中の側近。 1142年、秦檜の企てにより岳飛、岳雲そして 張憲も罪を着せられ誅殺されてしまう。 のちに冤罪が晴れて岳飛らと共に英雄(※)となる。 墓碑の前にデーンと転がっているものは 「明正徳重建張憲祠碑(残碑)」である。 (※)角度によっては様々な意見有り ![]() 【付録画像@】杭州海華大酒店 杭州ラマダプラザです。 西湖から徒歩数分にあります。(湖の東側) 毎週日曜日の朝、ここのロビーから 西湖一周の散歩がはじまります。 【西湖友好散歩倶楽部】 日本からの留学生や駐在者、中国の学生さんや 社会人さん等々・・・朝の澄んだ空気の中、 壮麗な景色を見ながら歩かれています。 私も昨年12月18日に飛び入り参加をさせて もらいました。とても気持ちよかったです。 ![]() 【付録画像A】西湖夜景 昨年世界遺産となった西湖。湖畔の整備も進み、 夜間でも遊歩道には灯りが燈り気軽に散策が出来る。 湖上では画像のような噴水演舞が披露され、 一度は聞いたことがある?「山外山、楼外楼〜」 の歌詞がとてもとても印象的な曲『人間西湖』が 大音量で流れている。 |
![]() 〜2013.2.6 中国のお墓064 ≪銭鏐墓≫ (852-932) 【浙江省臨安市】 銭鏐(センリュウ)・・・唐と北宋の間、 907年から960年の五代十国期、「前蜀」や 「楚」と並ぶ『十国』の中の「呉越」国の創建者。 黄巣の乱期を生き抜いた武人としての印象が強いが、 在位中は治水や農政に尽力したことでも知られている。 省都杭州から西へ車で1時間ほど行くと臨安(旧安国) という地方都市があり、中心部に近い丘に眠っている。 小国の王陵にも関わらず、宋代〜元明清民国期と、 歴代王朝および銭氏一族によって保護されてきた。 江南随一の保存状態の良い陵墓として知られている。 ![]() 【付録画像@】鶏血石 臨安市を更に西に行ったところに昌化鎮がある。 「鶏血石」は中国国内幾か所かで産出されてきたが、 一般にはここの「昌化鶏血石」を指すことが多い。 臨安市内にも多くの店舗があり、品揃えが豊富だ。 なんちゃって鶏血石から素晴らしいものまで・・・ 機会があったら産地臨安にてお求めくださいませ! ![]() 【付録画像A】市場 臨安市内の錦城小商品市場内の様子。 90年代の北京秀水市場にソックリである。 この隣の巨大な建物内には生鮮食品市場があり、 肉、魚、亀〜野菜などあらゆる食品が並んでいる。 (2011.12撮影) |
![]() 〜2013.3.1 中国のお墓065 ≪杜陵≫ (前73-前49) 【陝西省西安市】 前漢(前206-後8)第九代皇帝宣帝の陵墓。 宣帝は武帝(七代皇帝)の曾孫にあたる。 宣帝は内政重視であったが、他勢力への警戒も 怠らず漢中興の祖とも呼ばれた名君であった。 『霍一族』(←そのうち墓を紹介します)を絡めて 紹介しようと思いましたが話が長くなり そうですのでまたの機会に。 ![]() 【付録画像@】三門峡 2013年2月1日、爆竹や花火を積んだトラックが爆発し 高架橋が崩落した事故現場の近くです。 この画像は西安方面(西)から洛陽方面(東)へ走って いるときのもの。2〜3分走ると三門峡西ICです。 すぐ左側に黄河が流れています。
![]() 【付録画像A】三門峡火車駅 三門峡の鉄道駅。 北京に住んでいた90年代に、 「黄河砂漠を馬で探検」なる記事を何かで見つけて この地を訪れたことがある。西周墓地群を抜けて 黄河に出ると砂丘が広がっている。綺麗な砂漠とは 言えないがワクワクする場所だ。時間単位で馬を貸して くれてあとは自由。黄河沿いをひたすら闊歩するだけの ものだが誰もいない場所での乗馬は面白かった。 ※画像は2005年2月 ![]() 【付録画像B】三門峡汽車駅 こちらはバスターミナル。私はバス派である。 名もない墓地にたどり着くには地元民の話が参考になる。 鉄道は途中下車が出来ないがバスはすぐに降りられる。 (画像のような高速道路利用のバスは停まってくれない) 河南省は今でも殷周春秋期の墓地が発見発掘 されているので近いうちにまた訪れることだろう! ※付録画像…杜陵に関係なくスミマセン |
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![]() 〜2012.10.5 中国のお墓060 ≪馬相伯墓≫ (1840-1939) 【上海市】 江蘇省鎮江丹徒出身の著名な教育家で天主教神父。 相伯は字。原名は建常、改名後は良と名乗っていた。 数々の教育機関の創設に携わり、1905年には復旦公学 (のちの復旦大学)の初代校長に。そのときには弟子である 于右任を招き芸術方面の教育にも尽力した。 袁世凱時代には北京大学の校長も務めている。 天主教公墓内に埋葬されていたが、文革期に破壊され 現在は宋慶齢陵園(万国公墓)内に眠っている。 故居は江蘇、上海に数か所残されている。 ![]() ![]() 【付録画像】 上:鎮江駅 2003.4 下:鎮江駅 2009.9 馬相伯出生地の「丹徒」や六朝石刻で有名な「丹陽」を 抱える江蘇省鎮江市。(南京の東側) ※丹徒にも丹陽にも馬相伯の故居あり 鎮江は数々の旧跡があるので数年おきに訪れている。 ライフワークであった門票蒐集をしていたときに 出会った友人もこの辺りに多い。 特に…「鎮江旅游門票博物館」館長の湯さんだ。 ※門票とは入場券のこと 湯さんはエリート官僚の道を歩んでいたが、幼少の 頃からの夢をかたちにと…自宅を改装し博物館に。 北京や南京などで出張展示なども頻繁に行っていた。 熱血学習塾の塾長でもある。 ただ、、、趣味を仕事にするのは難しいことから、 彼の友人は『もったいない!』と口を揃えていた。 当時(10年以上前)から比べると現在は免票(入場無料) になってしまった観光地(博物館など)が多く・・・ 廃番票などは貴重な資料になりつつある。 そんな私も10年ほど前に『中国旅游門票百科』なる 愚誌を出版。現在、手元にある数万枚の新旧門票が 将来価値あるものになることを願っている。 ※上述の冊子…興味のあるかたに差し上げますので ご注文の際に「本ちょうだい!」とご記入ください。 遠慮なくどうぞ!(お代は不要です) お品物に同梱させていただきます。 注意:普通のひとは3秒で飽きます!! |
![]() 〜2012.11.4 中国のお墓061 ≪蔡襄墓≫ (1012-1067) 【福建省仙游県楓亭】 宋四大家のひとり(異説有)。他は蘇軾・黄庭堅・米フツ。 王羲之〜顔真卿をよく学び伝統書風を重んじた人物だ。 最も有名な「自書誌帖」は故宮博物院にある。 他には洛陽橋袂の蔡襄祠にある萬安橋記(碑)など。 書家や政治家としての顔のほか、「茶」研究の分野でも 知られている。撰写「茶録」は陸羽「茶経」と並び有名。 他の文物単位同様・・・この陵園も閑散としていて、 鍵を開けてもらっての入場であった。 管理人さんも久しぶりの訪問者だからか、、、 とても親切に説明してくれた。 お茶を入れてもらい飲んでいると、奥から横断幕を 取り出してきて(熱烈歓迎のやつ)、 沖縄から訪問団が来たときのことを話してくれた。 蔡襄の子孫『蔡』姓が沖縄に多く 住んでいて、その方たちが訪れたのだと。 現知事の仲井真さんも元を辿ると蔡氏とのこと。 前述の「異説有」とは・・・四大家は蔡襄ではなく 彼の従孫(じゅうそん)にあたる蔡京を入れことも。 ![]() 【付録画像@】洛陽橋(萬安橋) 蔡襄が泉州知州の際、6年以上の歳月をかけ建造。 北京:盧溝橋/広東:広済橋/河北:趙州橋と 並び中国四大古橋と称されている。 蔡襄墓からは30qほどの距離。 現在の長さは731.29m。東の袂には大きな蔡襄像有り。 この近くにはもう一つ有名な古橋「安平橋」がある。 ![]() 【付録画像A】摩岩石刻「萬古安ラン」 洛陽橋の中亭には歴代碑刻が10基ほど置かれている。 その裏手では岩に彫られた摩岩石刻が拝める。 中でも有名なものがこの「萬古安ラン」。宋代石刻だ。 岩の上を見てほしい。若者がいちゃついている。。。 彼らが写真に入らぬよう角度を変えて頑張ってみたが 無理であった。邪魔をしないよう…その場をあとにした。 ![]() 【付録画像B】福建省甫田市内 蔡襄墓への玄関口甫田。 地方都市・・・夕方の風景だ。 |
![]() 〜2012.12.2 中国のお墓062 ≪孔鯉墓≫ (前532-前483) 【山東省曲阜】 曲阜市内北部の広大な孔林内、 孔子墓のすぐ傍にこの墓が置かれている。 孔鯉は孔子の長男である。(二十歳のときの子) 墓碑銘「泗水候墓」碑文は明代書家の黄養正の筆。 孔一族が眠るこの孔林内には他に 李東陽や何紹基、康有為など歴代文人による 碑文が拝める。是非時間をかけて廻りたいところだ。 ![]() 【付録画像@】子貢手植楷碑 今では「学問の木」とも云われる楷の木、 (楷樹=ウルシ科の落葉高木) 孔子が亡くなったのち、弟子たちが方々より 樹木を持ち寄って墓台周辺に植えた。高弟「子貢」は その後も墓守をし、楷の木を植えたという。 本物かどうかは定かではないが『子貢手植楷』 とされる最後の枯木が残されている(画像内右) 20世紀に入り、日本にもこの楷の木が持ち込まれ 足利学校や湯島聖堂、各大学などに植樹された。 ちなみに孔鯉は父孔子よりも先に亡くなっている。 ![]() 【付録画像A】曲阜汽車駅 汽車駅とはバスターミナルのことである。 大きな都市(曲阜も然り)では設備のよいところが 多くなった。蜘蛛の巣のような高速道路の開通にて 移動もスムーズである。 ![]() 【付録画像B】漢魏碑刻陳列館 曲阜へ来たらココは絶対に行きましょう! どんな碑があるかはこちらをご覧ください。 |
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![]() 〜2012.7.1 中国のお墓057 ≪鄭公壹号大墓(鄭王陵)≫ (春秋) 【河南省新鄭市】 全国には無数の春秋期墓が点在しているが、 ここほど大規模且つ密なものは他には無い。 墓長6m超の大型墓が180座、20m超の王墓級特大墓が 4座あり、大小3000以上もの墓坑や車馬坑が これまでに発見発掘展示(一部)されている。 春秋期(2700年ほど前)の鄭国には22位の国君が いたが、そのうち21位がこの地に眠っている。 本格的な発掘調査は2000年以降になってからで、 今後も調査が続くとのこと。 ![]() 【付録画像】 左上:鄭王陵全景 左下:中華姓氏墻 右上:遊楽園廃墟 右下:墓地探索図 【鄭王陵全景】 鄭王陵は安陽の『殷墟』に匹敵するほどの規模 且つ展示具合も良いのだが訪問者は皆無である。 【中華姓氏墻】 黄帝故里付近にあった刻壁。中国人全体の95.8%を 網羅する3000もの姓が刻まれている。ちなみに 129の姓だけで87.5%を占めているそうだ。 【遊楽園廃墟】 90年代に廃業した遊園地がそのまま残されていた。 奇妙な遊具もあり面白い場所だ。 【墓地探索図】 有名どころではない文人墓などを見つける場合は ひたすら地元のひとに聞くことから始まる。 そのうち親切なおじちゃんが必ず出現する! |
![]() 〜2012.8.3 中国のお墓058 ≪周信芳墓≫ (1895-1975) 【上海市】 浙江省慈溪人。京劇一家に生まれ、7歳で初舞台。 京劇大師の梅蘭芳とは同世代である。 主に北京や天津にて活躍。華東戯曲研究院院長や 上海京劇院院長を歴任。 今は宋慶齢陵園(万国公墓)内に眠っている。 ![]() ![]() ![]() 【付録画像】 今回は『泉』をご紹介!実は湧水マニアでもあり。。。 上:黒虎泉(山東省済南) 中:珍珠泉(江蘇省南京) 下:龍井(浙江省杭州) 【黒虎泉】 「泉の都」山東省済南の四大名泉のひとつ。 72名泉を制覇しようと試みたが、新旧やらなにやら 途方もない数の泉があり・・・現在100箇所程度で 頓挫してしまっております。 【珍珠泉】 南京市内から長江を渡った西のほうにある。 中国津々浦々にある珍珠泉のひとつだが、 敷地内に偽長城もあるので訪れるひとも多い。 【龍井】 杭州四大名泉のひとつ。言わずと知れた 龍井茶の龍井である。グルグルかき混ぜると 龍が現れる。・・・らしいが見えたことはない。 ◆済南の名泉…補足@◆ 一言に72名泉と言いましても下記のようなものが・・・
済南市轄区だと733箇所となる。 何処々々の泉が“枯れた湧いた”という騒ぎが 多くの媒体で報道されるほど済南は泉の都なのである。 北京上海とは異なる景観を味わいに訪れてみてください! ![]() ◆済南の名泉…補足A◆ 済南名泉を訪ね歩くと明清碑に多く出会える。 この画像は『舜井』。この名泉の歴史は北魏に遡り、 以後、欧陽修や蘇徹などが好んで題材にしている。 近くに画像右の『舜祠迎祥宮碑(元)』が置かれている。 済南名泉傍碑でも最も古い碑のひとつである。 で、話はここから! 私が最後に訪れたのが2006年11月(画像撮影日)。 画像では分かりづらいがゴチャゴチャした街並みの 中に溶け込んでいた。その後大規模な区画整備が 行われ・・・昨年(2011年)10月、工事中に上記元碑から 50mほどの土中より古代碑片が発見された。 1.6mの碑首をもつその残碑からは年代は分からず 専門家が鑑定を進めている。 遥か昔、この辺りに舜廟(祠)が置かれていたが明代に 焼失してしまっている。そのときの遺物ではとも。。 ここに限らず中国では今でも毎年星の数ほどの 貴重な文物が出土している。 「発掘調査時」よりも「工事中に見つけた」という 話のほうが多いのは気のせいかな? ★今回は「付録」が長くなり申し訳ございません。。。 |
![]() 〜2012.9.6 中国のお墓059 ≪文種墓≫ (?-前472) 【浙江省紹興市府山】 春秋末期を闊歩した策士。越国勾践の謀臣である。 范蠡(ハンレイ)の影に隠れがちだがなかなかの曲者で、 文種なくしては『臥薪嘗胆』の言葉が生まれなかったかも。 ![]() ![]() 【付録画像】 上:水郷紹興の府山近く 下:越国遺跡内越王殿の画図 |
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![]() 〜2012.4.1 中国のお墓054 ≪趙之謙墓址≫ (1829-1884) 【浙江省杭州市西湖畔】 ご存知!…紹興出身の清末書画篆刻の大家です。 金石学に傾倒されていたあたり…大好きな文人です! さて・・・「墓址」?、、、これはどういうことなのでしょうか? 江西にて亡くなったのち、友人らの手によって 浙江に戻り、杭州西湖畔に埋葬された。 現在は遊歩道や周辺道路の整備もされ、歩きでも車でも 容易にこの辺りを闊歩出来るが、当時は獣道を進むか 船に乗ってでの難参拝であったという。 『趙之謙墓』は1956年に省級文物保護単位に登録される。 翌年、付近一帯に丁家山西山路が建設され、 墓園の一部が破壊されてしまうが、墓台は残されていた。 しかし58年、省外の民工による西山路整備工事の際に 墓は姿を消してしまった。重点認識が無かったのだろう。 昔は立派な墓台に二基の石柱が聳えていたそうです。 子孫のかたが写真を保管されていたそうですが、 文革期の混乱の中、消失してしまったようです。 現在は「この辺り」という場所に記念碑(画像)が置かれ、 すぐ近くの湖畔には趙之謙記念亭が建てられている。 ★みなさんへ★ もし当時の写真をお持ちの方がおられましたら… 是非ご連絡(見せて)ください! ![]() 【付録画像】 市街地の路線バス車内です。 車掌さんのいるバスは少なくなりました。 ワンマンバスが増えてきた2000年頃から、 1元・2元運賃が普通となり、 1元硬貨が急速に普及し始めました。 今ではICカード(公共交通カード)ですね。 ヨレヨレの1元札が懐かしい今日この頃。。。 |
![]() 〜2012.5.3 中国のお墓055 ≪欧陽修墓≫ (1007-1072) 【河南省新鄭市辛店鎮欧陽寺村】 吉州(現江西省吉安)出身の『唐宋八大家』のひとり。 ≪修=脩≫ 八大家とは・・・(唐:韓愈/柳宗元、 宋:欧陽脩/蘇洵/蘇軾/蘇轍/曾鞏/王安石) 文人としての面が強烈だが、先輩である包拯(999-1062) には及ばないものの政治家としても才能を発揮している。 墓台の西側には地繋ぎの夫人薛氏墓台がある。 昨年(2011年)秋に書簡96篇が日本で発見された報道は 記憶に新しいが・・・なんと言っても「醉(酔)翁亭記」! 403字詩・・・気概のある人は是非どうぞ! 鑑賞には台湾故宮博物院の文徴明(明)書の 「醉翁亭記」をお勧めしたい。 ![]() 【付録画像】 河南省省都鄭州から40キロほど南下すると新鄭である。 大規模な古城壁の残る街だ。 (興味のあるひとはコチラの「鄭韓故城」を見てください) もう少し南へ行くと三国志でもお馴染みの許昌、 西へ行くと少林寺方面といった場所。 前々から見たかった中国最古の石碑がこの時の目的。 その石碑を拝むまで時間が出来たので欧陽修墓へ。 どんな墓なのか調べていなかったので、新鄭市の文物局と 旅游局へ遊びがてら顔を出す。(左上画像:旅游局) 管理人が居ないときがあるとのことなので前もって連絡を お願いし、乗合バスにて欧陽寺村へ(画像右上) 1時間ほどかかり到着。やはり門は硬く閉ざされている。 「開門!」…弩でかい声で叫ぶが誰も現れない。 通りかかった人も加わり「開門!」 30分ほどが経ちバイクに乗って管理人が現れる。 山門、内門と開錠して墓園へ。貸切のようで気分もいい! |
![]() 〜2012.6.3 中国のお墓056 ≪明皇陵≫ (1344) 【安徽省鳳陽県】 明太祖朱元璋の父母の陵墓。 <父:朱世珍(仁祖淳皇帝) 母:陳氏(淳皇后)> 広大な墓園の神道(257m)には32対の石象が置かれ、 朱元璋撰の皇陵碑(6.87m)には自らの生い立ちから 明王朝開創の歴程などが刻まれている。【1105字】 相同対碑であるもう一基は「無字碑」。様々な謂れがあるが、 『父母の功徳を刻むべきところ、徳が高すぎて言葉に出来ず… また、農民出身の父母は大業を行ったわけでもなく。。。』 という理由からだそうだ。 画像奥の現存墓台は東西60m南北40mの楕円墳。 ![]() 【付録画像】 鳳陽県は地方都市独特の風情のある街だ。 濠州と呼ばれた元代までは鄙びた農村であったが、 朱元璋故郷のこの地に明中都が築かれてから発展した。 左上:龍興古刹 左下:明中都皇城遺蹟 右上:明中都鼓楼 右下:鳳陽汽車駅 2007年にAAA級旅游区に批准されるにあたり、 城内中心部の開発が進み特に鼓楼付近は昔の 面影は消え、観光客を迎える街並みへと変貌した。 画像(右上)は2005年、工事に入る直前の殺風景なとき。 鳳陽を散策したのち、バス(右下)に乗り徐州方面へ(北)、 項羽と劉邦の『垓下の戦い』跡地へ赴こうと考えていたが、 抜き打ちの車両一斉検査が行われてしまい・・・ その日はバスが動かず。。。未だに未到達です。 タクシーで行けばすぐなのですが。。。。 |
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![]() 〜2012.1.1 中国のお墓051 ≪虎丘剣池闔閭墓≫ (春秋) 【江蘇省蘇州市虎丘】 春秋期紀元前5世紀頃の呉六代王「闔閭」のお墓。 伍子胥や孫武、夫差といった名をあげると時代が お分かりいただけるかと。 故事成語『臥薪嘗胆』とは、越に敗れた際の傷がもとで 闔閭が亡くなり、後を継いだ次男「夫差」が越王「勾践」を 破るまでの数年におよぶ屈辱と、その後の戦いにて 敗れた「勾践」の心理をうまく表した詞である。 と、、、「闔閭はこの池の下に眠っているとのこと。 ![]() 【付録画像】 剣池手前のこの四字「虎丘剣池」はご存知唐代書家の 「顔真卿」の筆によるもの。しかし…左払いの運筆等から 『真劍池、假虎丘』(本物の剣池、偽の虎丘)とも。 もっとも、現在目にしているこの虎丘は 明万歴年間に大きく手を入れたらしいので・・・。 最後に、一枚目(セピア色)の剣池画像をご覧ください。 崖壁左下の篆書二字「剣池」は、いつしか王羲之書とも 言われていますが、これは元代書家の「周伯g」筆。 虎丘には他にも歴代書家の石刻が見られるので 機会があったら蘇州寒山寺とともに訪れてみてください。 |
![]() 〜2012.2.4 中国のお墓052 ≪明十三陵/裕陵≫ (明英宗墓) 【北京市昌平区】 明6代/8代皇帝英宗とその皇后「銭氏」「周氏」の合葬墓。 9歳にて即位した英宗。社会経済の発展期でもあり、 国家は安泰していた。国が豊かになると、 内面から黒雲がたちこめる…いつの世も同じである。 宦官の王振の悪意が発端となり起こった「土木の変」。 北方部族(オイラト)の捕虜となった英宗であったが、 「奪門の変」にて再び皇帝の座に返り咲く。 前後して22年間の在位。 明代は初期と晩期の歴史に目が行きがちだが、 このあたりも実に興味深い。 ![]() 【付録画像】 裕陵の神功聖徳碑から南側に続く裕陵神路の画像。 数少ない修復以前の状態を保つ陵墓である。 明十三陵は『定陵』『長陵』『昭陵』が一般公開されている。 観光ツアーでは『定陵』、『長陵』/『長陵神道石刻』を巡る 場合が多いが、他の陵墓を廻ることは殆どない。 明代皇帝陵墓は「十八陵」あり、祖陵(江蘇省)/ 皇陵(安徽省)/孝陵(江蘇省)/顕陵(湖北省)を 除いた14陵が北京郊外にある。 「土木の変」収束後に兄の前皇帝(後皇帝でもある)英宗を 軟禁した七代皇帝代宗(景泰帝)=『景泰陵』のみ十三陵と 離れた頤和園近くの金山に小規模に埋葬されている。 |
![]() 〜2012.3.3 中国のお墓053 ≪牛皋墓≫ (1087-1147) 【浙江省杭州市宝石山】 2011年6月、ユネスコの第35回世界遺産委員会にて 杭州『西湖』の文化景観が世界遺産として登録されました。 (※これで中国は41箇所に! ちなみに日本は16箇所) その湖畔に築かれた岳廟に「岳飛」が眠り、その岳廟を 見下ろす(実際は見えない)高台に「牛皋」が眠っている。 牛皋は汝州魯山のひと(現河南省魯山)。 抗金の名将岳飛に従い、しばしば戦功をあげる。 三国志でいうところの張飛的存在かな。 悪役「秦檜」の命により、前後して岳飛も牛皋も 毒殺されてしまう。岳飛と共に『民族英雄』である。 ![]() 【付録画像】 上述文言の流れから、西湖画を添付しようと思いましたが、 在り来りの湖写真になってしまいますので・・・ (※このページ内最上部の夕焼け画像が西湖です) 杭州の名物料理をご紹介! 中国八大料理のひとつ「杭州料理」は日本人に好まれる 素材や味付けが多い。有名どころは・・・ 蘇東波の愛した豚の角煮「東波肉(画像右上)」、 龍井茶とむき海老を炒めた高級料理「龍井蝦仁(左上)」、 他には「杭州小龍包」やジュン菜を使用した料理など。 で・・・・このラーメンのようなものはなんでしょう?? 正解は「片儿川面」! 東北の小麦粉を使い、豚肉片と筍、雪菜が入った 独特の味がする「風味小吃」です。 有名どころの「楼外楼」、「天外天」、「山外山」での食事も 良いですが一般食堂(画像品)もおいしいですよ! 余談:ひとりで中国での食事は非常に寂しいです。 |
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